2008年5月2日から3日にかけて、ミャンマー南部のデルタ地帯をサイクロン「ナルギス」が襲った。
未だに全貌が分からない

サイクロン「ナルギス」による死者・行方不明者は、合わせて14万人とも16万人とも言われているが、発生から3ヶ月以上たった現在でもその全貌は明らかにされていない。
ミャンマーは、軍事独裁政権であり、ジャーナリストの入国は厳しく制限されている。特に、今回被害のあったヤンゴン市から川を挟んで南の地域一帯は、ジャーナリストだけでなく各国のNGO職員の入域も厳しく禁じられている。
今回は取材元の安全を考慮し、筆者名・取材地名・取材対象者名を伏せさせていただくことを最初に申し上げる。軍事独裁政権下の国の状況をご理解いただきたい。
被災後3ヶ月目に医療チームが来た

定期連絡船で、被災地ヤーワイデ管区の街につき、そこから小船をチャーターしてさらに奥地に入る。デルタの川はどこでもそうだが、土色に濁っている。
川を行き来する米を満載にした小船は喫水線を深々と沈めて、横波をかぶればあっというまに転覆しそうだ。
30分ほど小船を走らせて、ある集落に着いた。この集落は人口350人ほど。農業と川魚の漁で細々と生計を立てている村だ。
この村の僧院に行くと、小さな子供を連れたお母さんが50人ほど集まっていた。
筆者が訪れたちょうどその日、被災から約3ヶ月目にしてようやくユニセフの支援による医療チームが現地に入ったのだという。
医療チームによる調査の結果、幸いこの村では感染症などの発生はなかったそうだ。しかし、多くの母親はわが子を抱いて不安そうな面持ちで医療チームの診察を待っていた。医療チームは、必要に応じて「はしか」などのワクチンを子供に投与していた。
生き残った多くの子供はすこぶる健康であったが、それでもこの村では子供を含め58人がサイクロンによって亡くなっていた。
この村では、ミャンマー政府からの支援はなく、ユニセフ・僧院・NGOなどからの食糧支援などが被災後1ヶ月以上経過してようやく届き始めたという。
学校が復活
この村に、ユニセフの支援で学校用のテントが届いたのは被災から2ヶ月が経ってからのことだった。ミャンマー政府からの援助や支援は一切なく、この原稿を書いている今(8月25日現在)も政府の支援は未だにないという。
ミャンマー軍の幹部が視察に訪れ激励はしたが、何の支援(手土産さえ)もなかったという。
笑える話だが、ヤンゴン市内で見た国営テレビではニュースで、被災地に軍幹部が入り被災者を激励し、支援物資を手渡したとその様子を伝えていた。しかし、よくよく話を聞くと、カメラが止まったら速やかに手渡した手土産は回収されたそうで、子供たちはお土産をもらってもうれしそうにしていなかったわけが分かった。
他にも子供たちが授業を受けている姿を取材したが、子供たちはなぜこんなにも生き生きと勉強するのだろう。生活がギリギリの状況でも、授業には活気がある。
貧しいからノートも鉛筆も十分に持てるわけではないし、教科書にしても日本のそれと比べてお世辞にもきれいだとはいえない。しかし、教える先生も、習う子供たちも生き生きしている。
少なくとも筆者はかつてこのような真剣な目で学校の勉強をした記憶はない。
7歳の子供から16歳の高校生までが同じ小さなテントの学校で授業を受けていた。
正式な先生は緑のロンジー姿(ミャンマーの民族衣装)の若い女性の先生だった。他に3人いる先生は、みな高校を卒業した僧侶だという。
テントの学校では、10歳になった子供から英語も教えている。
それを聞いていたので、休み時間に子供を捕まえて英語で話しかけてみたところ、恥ずかしそうにきちんと応えてくれた。
次回は、ミャンマーの国内事情について深く掘り下げてみたいと思う。
(監修:レスキューナウ)
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