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防災インタビューVol.7

災害情報ボランティアの役割

放送月:2004年10月
公開月:2007年2月

干川 剛史 氏

大妻女子大学人間関係学部 助教授

三宅島からの発信

全島避難直前の「島魂」のTOPページ(2000/08/27)

三宅島で普段インターネットを使っている人たちが、ホームページでいろいろ自分たちの考え方や主張などを情報発信したり、いろいろな情報を集約してホームページに掲載したりという活動を、避難する直前から行ってきています。それは「島魂(とうこん)三宅島ネット」というグループでの情報支援活動というもので、今でもそのホームページがあり、ずっとその活動を続けているわけです。

あともう1つが、これは実際、私がかかわって、ここ4年以上やってきている活動として「三宅島と多摩をむすぶ会」というボランティア団体があるのですが、これは三宅島の人たちが多摩ニュータウン地域に避難してきて、その避難者の方たちを支援するために立ち上がった団体です。

今までずっと続けてきている活動というのは、インターネット上にいろいろな情報、三宅島の人たちに役立つ情報があるのですが、それを集め、月1回情報紙という形で印刷して、三宅島の人たち300世帯に配るというものです。その情報誌紙の名前が『アカコッコ―三宅・多摩だより―』というのですが、アカコッコというのは三宅島の村の鳥になっています。三宅島の人たちにとってなじみ深い鳥ですので、そういう名前をつけました。それでずっと情報紙を配るという活動をしてきています。

「三宅島と多摩をむすぶ会」のホームページ

この冊子を作るのも最初は月1回でも大変な作業でしたが、慣れてくるとルーティン化してきますので、だいたい私1人で作っています。もちろん三宅島から多摩にいらっしゃった300世帯の方はご覧になれますが、一般の方々でも、ホームページに1号目から最新号までずっと入っていますから、見ることは可能です。

三宅島の人たちの避難が終わったのが2000年9月4日ですが、その直後の9月6日に立ち上がった団体が「三宅島と多摩をむすぶ会」です。これは、もともと多摩ニュータウン地域でいろいろな地域活動をやっている方たちと、私のような阪神・淡路震災から災害救援に携わっている人たちが一緒につくった団体です。私は最初のうち副代表だったのですが、最初のアカコッコの1号からずっと編集代表者として紙面作りを続けていて、うちの学生や都立大の大学院生、地域のボランティアの方、多摩市役所の人たちと印刷したり配ったりという活動を続けてきています。その他、三宅島の小さいお子さんの世話をするようなボランティアなど、いくつかやってはいます。今の主な活動は情報紙を作って配ることで、4年続けてきています。アカコッコのホームページはGoogleでもyahooでも何でも出てきます。カタカナでアカコッコでぜひ検索してみてください。

左:「アカコッコ―三宅・多摩だより―」の紙面 右:「アカコッコ―三宅・多摩だより―」の折り込み作業の様子

三宅島への一時帰島

早朝に到着した三宅島三池港から見た雄山の噴煙 2004年7月24日

たまたま都立三宅高校から私のところに入ってきた学生がいるのですが、そこの家庭から、一度、三宅島を一緒に見に行きましょうと言われて、7月23日から25日の3日間、三宅島への一時帰島に同行するという形で入りました。だいたい朝5時ごろ着きますが、船を降りて、ガスが来ても大丈夫な300人ぐらい泊まれる大きな避難施設とういものがあるのですが、そこに一度行きまして朝食を取ってから現地に向かいました。その家庭は阿古地区という、三宅島の南西部にある地域なのですが、そこでペンションを経営していますので、そこのペンションの点検とか補修を手伝うという形で同行しました。

けっこう暑い時期に行ったのですが、三宅島は常時風が吹いていまして普通は気温が30度を超えることはないのですが、その時は30度を超えていたというのを後で気象庁のホームページのデータを見ると分かりました。火山ガスも出ていました。この火山ガスのために三宅島の人たちは帰れないのですが、この時のデータを見ますと、1日1万3千トンから1万4千トンぐらいの量が出ていました。その当時の三宅島の場合、一日あたりの火山ガスの量が3千トンから1万トンぐらいの間なのですが、そういう意味ではちょうどガスが多かった時期でした。

三宅島雄山の火山ガス噴出量の推移 気象庁ホームページより

地域によっては高濃度の火山ガスが出るので、乗船するときに三宅村からガスマスクを渡されるのですが、その時は、阿古地区では火山ガスは出ませんでしたので、ガスマスクを使うことはありませんでした。

だから見た目では人が住めるという感じでした。島に入ってみると、人が全く住めないということではないという印象を受けました。

建物については地域によりますが、火山ガスの濃い三宅島東部の三池地区は、バスで通りましたが沿道の家はガスでやられていて、屋根などは朽ち果てていますし、木なども枯れてしまっています。これは島全体の面積では3分の1ぐらいのものですので、その他の所はまだ大丈夫ということです。

来年2月(2005年2月)に避難指示解除ということになりまして、希望する人たちは島に帰れることになりました。三宅村の調査によると、希望者は2052人と言っていましたが、だいたい住民全体の6割ぐらいです。

三宅島三池地区の様子 2004年7月24日

問題は、経済的にどうやって生活していくのか。三宅島の住民の約80%の生計は、観光で成り立っているところなので、観光客の方に来ていただかないと復興しないのです。そこをどうするかという点で、かなり難しいところがあります。そういう政策とか方策に、まだはっきりしたものが見えていないので、帰ったはいいが仕事がないということだと困ってしまう。それが一番大きな問題です。

三宅島の人たちは、ずっとここで暮らしてきたわけですから、特にお年寄りの方は何十年もそこで暮らしていますから、帰りたいという思いがすごく強いわけです。

それでも若い人は実は避難先で仕事を得て、場合によっては家も建てた人もいるので、30代、40代でこちらに根を張った人は帰らないし、10代・20代のこれから大学に行く人、大学に行っているような人たちもあまり帰りたくない。60代以上の人たちはみんな帰りたいが、それ以下の人たちはそうでもないというのが実情です。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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