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防災インタビューVol.83

災害派遣医療 ~災害派遣医療チームDMATの活動を通して考える震災対策~

放送月:2013年1月
公開月:2013年3月

近藤 久禎 氏

厚生労働省DMAT事務局事務局長

東日本大震災とDMATの活動

東日本大震災においてDMATは、まさに被災すぐから活動を開始いたしました。発災後1時間ぐらいで要請あり、そこからすぐDMATが出動し、全国から約1800人を超える人数が集まり、岩手や宮城にそれぞれ400人以上のDMATを投入できました。1800人のうち、発災後から十数時間で既に半分ぐらい、1000人ぐらいのDMATが被災地に届くという形をとれたので、非常に迅速な滑り出しができのではないかと思います。

DMATの活動としては、外傷、けがの患者さんの救命治療に当たるというのが従来の想定でしたが、東日本大震災においては、外傷の患者はそれほど多くはなく、入院患者の避難活動が主な仕事でした。東日本大震災の際にはライフラインの復旧がかなり遅れ、物資の供給もかなり遅れたこともあって、多くの病院が入院患者の診療の継続が困難になりました。そういう中で、これ以上その病院に入院患者を置いておいたら亡くなってしまうという状況に追い込まれた病院が幾つかありました。一つの病院を避難させるということは、患者200人から300人を動かすということになります。一度に動かそうとすると、救急車が二、三百台必要な非常に大きなオペレーションになりますので、そういう事態に対してDMATが対応しました。医療の継続が必要で入院している患者は、1日放ったまま搬送してしまうと、必ず体調の悪化、最悪の場合は死に至るということもあるので、そういう意味でDMATが絶え間ない医療を提供しながら搬送することが、今回の震災では求められました。岩手、宮城の多くの病院から被災地外の病院への搬送に携わるとともに、被災地の患者を全国レベルに分散搬送する広域医療搬送に携わり、実際に自衛隊機を用いて行いました。今回の震災においては、被災地の空港として花巻空港や福島空港を拠点として、そこから千歳、羽田、秋田に計4機の固定翼機、自衛隊の航空機で19名の患者を運びました。これは従来、巨大な震災時に政府が行うオペレーションとして企画され、毎年9月1日には大きな訓練をやっていたのですが、10年近く積み上げてきたものが、今回の震災で初めて役に立ったのではないかと思っています。

このようにDMATでは、個々のチームが病院単位で動いていくのですが、そういう中でリーダーを育てる研修も別にやっています。そういうリーダーが災害拠点病院や県庁など随所随所に入って、指揮系統を立ち上げました。このようなことが無事うまくできたので、今回の震災の急性期に何とか対応できたのではないかと思っています。

東日本大震災の現場での活動

今回の震災対応において石巻赤十字病院は、かなりメディアにも取り上げられましたし、素晴らしい活動をされましたが、実は私は震災のあった3月11日に、この石巻赤十字病院に呼ばれていました。何もなければ、あの日の夕方は石巻赤十字病院で私の講演があるはずでした。私はちょうどその講演のために東北に向かっているときに、栃木の矢板辺りで被災しました。新幹線が揺れまして、そこで6、7時間閉じ込められてしまいました。その後、救助され、そのままタクシーを拾って福島医大のほうに向かいました。福島医大に着いたのは夜中の2時ごろで、発災後12時間ぐらいたった後でしたが、既に20チーム近くが集まって、見事な指揮も執られていたので、福島ではその当時はニーズはないかと思い、翌朝を待ってヘリコプターで岩手県庁に飛び、それから2日間、そちらで DMATの調整活動を行いました。我々は災害時に移動するための調査ヘリコプターの予算を厚労省からもらっていますし、全国のドクターヘリも十五、六機集まって、花巻空港と福島医大を拠点として活動しておりました。病院からの避難搬送のときもドクターヘリが活躍して、随分、命を救ったのではないかと思っています。

実際に岩手県では、今回は非常に優れた県庁の運営をされていたのではないかと思います。というのも、今回は3回目の本部運営で、岩手宮城地震、岩手の北部地震、チリの津波と、これら3回の経験を経て、かなりのベテランがそろった本部で、通例では医療が県の本部の中枢に入るということはなかなかできないのですが、今回の震災では全ての所でそれができました。特に岩手県では最初からそれが予定されていたというところが、他の県と比べると非常に進んていたところだったのではないかと思います。

ただ、陸前高田や大船渡などの地域では、災害後は現場は非常に混乱していて、最初に重傷の患者が80人いるという情報が入ったら、その2時間後にはゼロ、またその2時間後には今度は10人いるというように、情報が錯綜する形になっていました。そのような状態で我々はヘリコプターの調整をやっていましたので、「ヘリを80機用意しろ」と自衛隊と交渉していたら、すぐゼロだということになり、最終的には6、7機ぐらいは用意しようというような調整に明け暮れていたということです。

そのような中で、花巻空港に関西の方から300人のチームが来まして、移動手段や宿がない状況で、非常に苦労しながら活動していただきました。我々としては、できるだけ多くの患者を被災地である沿岸部から花巻に集めて、その後、状態によって広域搬送、または内陸部の病院に受け入れていただくという調整を行っておりまして、「とにかく沿岸部を一度飛んだヘリコプターは全部花巻に来い」というような調整を県庁でやっていました。

※今回のインタビュー記事は、東急電鉄の協力のもと、「FM salus」が過去に放送した『東急建設 presents 「サロン・ド・防災」』の内容を、一部改定して掲載しています。