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防災インタビューVol.83

災害派遣医療 ~災害派遣医療チームDMATの活動を通して考える震災対策~

放送月:2013年1月
公開月:2013年3月

近藤 久禎 氏

厚生労働省DMAT事務局事務局長

福島における被ばく医療活動

最初のうちは岩手県庁で働いていたのですが、その後、福島で1日一つずつ原発が爆発していくような、非常に異常な事態が起こっておりまして、福島の情報ばかり入ってくるようになりました。実は私自身は放射線医学総合研究所で、被ばく医療の活動を4年ほど担当しておりました。災害医療と被ばく医療の両方をやっている人間とは多くないので、岩手も少し落ち着いてきたので、福島に向かったほうが自分自身にとっては一番必要な仕事ができるだろうということで、ヘリコプターで、当初行く予定の宮城を飛ばして、岩手県庁から福島県庁に入って仕事を始めました。福島に入るやいなや、原発がまた一つ爆発しまして、従業員の方が数名けがをしたということで、その対応と、患者をどこに運ぶのかという対応をすることから始めました。それと同時に、まだまだ福島県の中では被ばく医療を調整する本部が十分に出来上がっていなかったので、その本部を立ち上げながら患者の対応をする、という流れの中で仕事を始めていきました。

最初に行った仕事は当然、傷病者への対応ということもあるのですが、住民のスクリーニングをやりました。原発事故の放射能の影響がありますので、住民の方々はスクリーニングをしないと避難所にも入れないし、場合によっては避難所に入っても支援が受けられないというような状態に追い込まれていました。そういう方々が7万人から10万人ぐらいいる中で、その人たちを一刻も早くスクリーニングすることに着手しました。全国からの支援も頂いてスクリーニングチームを回して、何とか1週間で142カ所を回って、少しやり方を簡便化しましたが約7万2千人の方をスクリーニングし、何とか無事、避難生活に入ることができるような形を作りました。

あの時点で一番困っていたのは、福島に応援が来ないということでした。本当に1日に一つずつ原発が爆発している状況で、米軍も100キロ以内は全部逃げるようにと言っており、このような流れの中では今後どうなるかも分からず、福島県に入るのも難しいという状態でした。我々も「こういう安全対策をとるので大丈夫だ」ということを全国に発進して、チームを募りました。私自身は被災した11日に福島に行き、その後岩手に行って、14日に福島に戻ってきました。その間は、住民の方も逃げている状況でもありませんでしたし、病院もたくさんあるという状況で活動していました。その後も半年間で100日ぐらいは福島にいるような生活でした。

このような状況の中で、福島のある病院で440名の入院患者を避難させる際に、その1割近く、50名近い患者が移動途中に亡くなるという悲惨なことが起こってしまいました。これは、我々がこの事態に医療でうまく介入できなかったことが最大の反省となっているのですが、実は同じような危機が原発から20キロないし30キロ圏内で、もう一度起ころうとしていました。この時、20キロから30キロ圏内は「屋内退避」という地域に指定されました。「屋内退避」というのは本来、「部屋の中にいなさい。逃げなくていいですよ」という指示なのですが、あの当時、その指示が出た瞬間、もう支援物資も消防も、我々医療チームも誰もその地域に入れないということになってしまいました。その結果、そこに建っている約500人の入院患者がいる病院が全く孤立してしまい、このまま放っておいたら500人全員が亡くなるのではないかという事態になっていました。この頃DMATは一度撤退していたのですが、もう一度要請をかけました。この500人の入院患者を警察や自衛隊の方々に30キロ圏外まで5、6日かけて何とか連れてきていただいて、そこで放射線のサーベイを行うとともに医療的な介入をして、隣の県まで消防やDMATによって運びました。その結果、何とかこの500人の方々を途中で亡くなる方を1人も出さずに無事、搬送することができました。その後もDMATは半年ぐらい福島に滞在しています。これは、もともとは福島第1原発で働く作業員の方々をケアし、傷病者が多数発生した場合に手伝う目的で行っていましたが、実際には他の業務も割り当てられました。それが「住民の一時立ち入り事業」の援助です。20キロ圏内の住民の方々は逃げるときは、すぐにでも家に戻れると思って避難してきた方ばかりです。しかし、もう帰ることができないという事態になっており、一度家に戻って、思い出の品や生活必需品を取ってきたいというニーズが高かったので、政府がしっかり管理した中で20キロ圏内に入ることになりました。ちょうどそれが夏の時期でした。タイベックススーツというものを着ていくのですが、これを着ると熱中症の危険やさまざまな健康上のリスクがあり、そこで、医療の監視下で一時立ち入りを行う必要があるということで、医療班が主導して一時立ち入りを行うということになりました。3会場で1日1000人ぐらいの方々がこの活動をするという、非常に大きなプランになっていたのですが、その3会場のうちの1会場は必ずDMATが受け持つということで、半年間で約1万4千人の方々の一時立ち入りをDMATがお手伝いしました。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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