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防災インタビューVol.5

阪神淡路大震災での体験

放送月:2004年5月
公開月:2006年12月

中川 和之 氏

時事通信社Web編集部 次長

長年の気象庁担当を通じて地震・火山を学び、(社)日本地震学会の委員会活動として「地震・火山子どもサマースクール」を毎年開催しています。記者としてだけではなく市民の立場から、災害援助のあるべき姿を模索し、神戸市の研究会委員や厚生労働省の専門分科会委員なども務めています。また、NPO法人CODE海外災害援助市民センター監事や東京いのちのポータルサイト理事を務め、ボランティアとしても活動しています。

地震が起こった後で

阪神淡路大震災が起きた後の話で、あまり皆さんには伝わっていない話をさせていただこうと思います。私は神戸市の市役所の方とよく話をします。もちろん神戸市にはいろいろな地方や自治体の方が視察に来られるわけです。そういうときにいろいろ質問されるそうです。どんな質問をされるかというと「避難所はどうやって開設するんですか」とか「仮設住宅ってどう造るんですか」ということだそうです。でも、神戸市の方と「いつまでもそんな話では寂しいよね」と言っています。それはなぜかというと、実は避難所や仮設住宅を造るよりも、避難所をどうやって閉めるか、また住んでいる方にどのように他の住宅に移ってもらって仮設住宅を終わらせるか、ということのほうが、よほど難しいのです。「その過程で、どのようなことがあったかがなかなか伝わっていないことが残念だな」という話をよくしています。

神戸市西区の仮設団地(95年8月)

実際、阪神淡路大震災の時は、その年の夏で一応避難所という形は終わりました。避難所では、家でご飯が食べられない、ライフラインが復旧していないから食事する場所がないということもあって、食事の供与、お弁当を出したり炊き出しがあったりしましたが、夏の段階でそういうものは終わりました。しかし、避難所には行く場所がない方がいらしたので、その後は避難所ではなく、一時滞在できる場所として使ってはいました。また、仮設住宅は地震から5年を迎える前になくなりました。これは私もびっくりさせられました。当初は、10年は仮設住宅はなくならないだろうと思っていたのです。多くの方が仮設住宅で生活を長く続けたり、当然そこで暮らすわけですから、生きていれば亡くなられる方がいらっしゃったり、そこで赤ちゃんが生まれるとか、そのような暮らしが仮設住宅に長くあるのかと思っていた。そうしたら、5年でなくなったのです。これはもちろん復興住宅がいろいろできていったということもありますが、最後は仮設住宅に住んでいらっしゃる方の一世帯一世帯のいろいろな細かい状況を、行政の方がヒアリングに入り、一人ひとりの事情に応じた場所の不動産物件を探してきてご提案し、そこに引っ越していただいたということです。これは半分冗談みたいな話なのですが、不動産屋さんがびっくりするような物件を市役所の方が探してきて「よくそんな物件を探してきましたね」と言われたという話も聞きました。そういうところまで細かく一人ひとりの状況を把握してサポートすることで、仮設住宅が5年で解消できたということです。そういう復旧・復興の過程、特に復興の過程でいろいろな苦労がたくさんあったわけですが、その部分があまり伝わっていない。直後のことしか皆さん聞きに来てくれないというのが、被災地の自治体の人からよく聞いたことです。

災害ユートピアについて

災害ユートピア」というのは、たぶん耳慣れない言葉だと思います。復興の過程で長くいろいろな大変なことがあったのですが、実はその1つの過程をできるだけうまく持っていく鍵になったのが「災害ユートピア」という時期です。これはある時期のことを指しますが、例えば地震があって数日後から、短い人だと数週間、長い人だと2、3カ月ぐらいの間の時期のことを称して言います。

みんな地震の直後は、震度6とか震度7に遭って、一緒に大変な思いをしているわけです。その後ライフラインが一遍に止まりますから、どんなにお金を持っている人でも、水道は来ないし電気は来ないし、みんなで一緒にしんどい思いをするわけです。例えば給水車が来て水を運ぶときに、ちょっとお年寄りの方がいたら若い人が手伝ってあげたりという助け合いが自然に行われた時期があります。それが「災害ユートピア」と言われている時期です。

1995年1月の鷹取商店街と、2002年4月の鷹取商店街

この時期のことですが、みんなが等しく不便になってしまうので、お互い助け合ったりできるのです。これは別に日本の災害だけではなく、阪神大震災だけではなくて、海外の災害でもこういう時期があるというのは知られていたことだそうです。私は後からそのことを知りましたが、阪神大震災で現地に入って、現場でそういう気持ちを皆さんが持ち合って、一緒に頑張っているのを見てきました。「この気分はなんだろうな」と思って、後からいろいろなことを調べたり、いろいろな人の話を聞いて、この時期のことを「災害ユートピア」と言うのだということが分かりました。

確かに一時的に、「一緒に前向きに頑張ろう」と皆さんが同じ気持ちになれるのです。阪神大震災の直後に、「頑張ろう」という言葉が被災地の中に貼ってあったということは、テレビなどでご覧になった記憶があるかもしれませんが、あの時期がたぶんそういう時期だったと思うのです。だから、皆さんが一緒に頑張れるような仕組みがうまくつくれれば、後々そこからスタートしていけるのです。ですが、せっかくみんなが頑張ろうと思っている時期に、うまく頑張る仕組みがつくれないと、だんだん「復興落差」というのが出てきます。「復興落差」というのがどういうことかというと、最初はみんな同じような大変な思いをしているわけですが、例えば社員に対するサポートがいい会社ですと、被災した社員に被災地外のホテルを用意したり、会社の方がいろいろサポートに来たり、物資も届きます。家族や親類など頼れる方がいらっしゃる方はどこかにしばらく行くとかもできた。でも、なかなかそういうつながりがない方は、ずっとその状況に置かれなければいけないということで、差が出てきます。手はずがいい人は自分の家の修理を早くできたりするのですが、ひどい被災をした地域だと、街全体で復興しなければいけないので時間がかかる。その落差が出てくる前に、自分たちは一緒に頑張ろうという約束事を決めて、「復興のまちづくり」などをすればいいのです。例えば小さい家がたくさん建っていて倒壊した所に、みんなで一緒に共同住宅を造りましょうという約束を早く決めれば、そこから早く動き出せる。避難所でそういう話をして、合意をして、3月のうちに発注先の業者まで決めていたという地域もあったそうです。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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