おぼれている人を助ける方法
外国のテレビドラマ、映画などで、溺れている人を助けに行くときには救助者が服を脱いで行くというシーンが多いですよね。自分が身軽になって助けてあげるというのは1つの方法です。但し、よくみると泳いでいく前にもう1つ、あることをしてから助けに行っているのです。
「溺れるものは藁をもつかむ」ということわざがあります。実は、溺れている人は大変な恐怖の真っ只中にいるので、何でもいいから近くにあるものにしがみつきたいのです。救助者は溺れている人のそばまで泳いで行って抱きかかえてあげようとするのですが、溺れた人はギュッとしがみ付いてきます。そして次にする行為は、そこにあるものを土台にして早く水の上に上がろうとすることなのです。助けようとしている人はそんなこと考えていないので、いきなり水の中に押し込められてしまい、結構泳ぎに自信のある方でも救助側が溺れてしまうということが起こっています。
では、どうしたらいいのか。外国ドラマでやっているのは、まず何かを投げ入れて、「それにつかまれ」という指示を出していることです。まず自分が助けに行くのではなく、何か浮く物につかまってもらい、それを助けるというのが実はとても安全な救出方法なのです。浮き輪を投げてもいいし、ロープを投げてもいい。溺れている人にそれを掴む力さえあれば助かります。
夏休みなどに川にキャンプに行くと、ボランティアの方たちが、泳いでいる子どもを見ているというケースがよくあります。実際にあった話ですが、他のパーティの子どもが流された時に、ある方がすぐに水に入って行きました。近くの人に「自分は泳げないけれども責任があるから助けにいく」と伝えていました。子どもは流されたものの助かったのですが、その方はそのまま水に沈み亡くなりました。
お葬式の席で上司が弔辞を読みました。「彼は社内でも本当になんでも一生懸命やる人間で、企業戦士だった。たまの休みにはボランティアに行き、そこでも真剣にやっていた。今回の死は本当に彼らしい死だった」。
さて、「彼らしい死」というものがあるのでしょうか。彼は死ぬべき人だったのでしょうか。酷い言い方ですがこの方の行為は余りに無謀であり、招いた結果は「無駄死に」です。彼がもし別の方法を知っていれば死ななくてもすんだのです。日本人は、こういう話を美談にしてしまいがちですが、おかげで毎年何人もの大人が亡くなっているのです。
外国では小さな頃から上記のような理屈や危険性、対処方法を勉強していて、助けに行くときにはまずは溺れている人に何か物を投げてあげて、その後、自らが近くに向かうなら服を脱いで身軽になっていくということが、きちんと広まっています。
ぜひ、日本でもこうした基礎的な「人を助ける方法」を教えていって欲しいと願います。
着衣泳について
一方で救助される側の自助行為として「浮いて待つ着衣泳」を覚えてほしいと思います。着衣泳というと多くの方は「服を着たまま泳ぐこと」と言われます。これまでそう習ってきているので仕方ないのですが、実は行動としては大きな間違いを秘めているのです。
着衣泳は「泳」という字が書いてありますが、ここでは敢えて「泳いではいけない」というメッセージを、ぜひ皆さんにお伝えしましょう。
確かにこれまで、着衣泳とか着衣水泳という言葉の意味は、「海にじゃぼんと落ちてしまったときには、なんとか泳いで岸まで行こう」という風に使われていました。そのために泳ぎづらい着衣のまま、必死に泳ぐ練習をしたのです。それで水泳が嫌いになった児童は多いと聞いています。
最近の研究では、着衣のまま泳ぐことによって、身体がどんどん水に沈んでしまうのだということが分かってきました。では、水に落ちたとき、どうしたらいいのでしょう。
ここで活躍するのが新しい着衣泳なのです。
毎年夏になると、水に溺れてしまったという話が新聞をにぎわせます。おぼれる人は海水パンツや水着でおぼれているのですが、助ける側は洋服を着たままが多く、上述の通り泳ぐことで溺れてしまうというケースが多いのです。また、年間を通して圧倒的に多いのは、用水路に落ちておぼれたり、釣りで波にさらわれたというように、もともと服を着たままでおぼれているという事例です。
服を着て泳いだことはありますか。1枚長袖の服を着ているだけで、水の中では手も上がりません。屈強な男の子でも泳ぐのが大変です。それに加えて助けなきゃならない、一生懸命行かなくちゃならない、泳がなきゃならないと思うと、もうアップアップです。授業の一環でこんなことを習うのは苦痛ですね。泳げる子はいいですが、泳げない子はとても大変です。
さて、溺れた側から見てみましょう。実は服を着ていると、身体はとても良く浮くのです。服の中にはたくさん空気が入っています。だから浮くのです。浮くのだったら、慌てて泳ぐ必要はないのでは? これが新しい着衣泳の発想です。泳ごうとしてうつ伏せになると顔が下になってしまうので、泳げない方には辛い。泳げていても呼吸をするには顔を上げる努力をしなければなりません。ですから、服を着たまま、上を向いてポカポカンと浮いていればいいのです。泳ぐ努力をするのではなく、ゆったり浮いて救助を待てばいいのです。
しょせん日本の川は、ナイアガラの滝みたいに何十メーターも水が落ちている所はないので、だいたいはどこまで流されていっても、浮いていさえすれば掴まえてもらえます。
沈んでしまったら?・・。その時は「救助」ではなく「捜索」になってしまいます。「救助」までの時間をとにかく長く持たせるために、「浮いて待つ着衣泳」を、ぜひ皆さんに知っていただきたいと思います。水に浮くのは、それほど難しいことではありません。
さらに最近では、子どもや若者はエアインという軽い靴を履いていることが多く、これらの靴には空気が入っているので、足自体も浮くわけです。上を向いて手を広げて足も水面に出して、その状態で誰かが来てくれるのを待つのがいいと思います。結構長い時間その状態を保つことができます。この新しい「命を守る着衣泳」を学校や学区単位で練習しておくことをお勧めします。
さて、助ける側としては、自分がアクションを起こすより早くプロを呼ぶことが大切です。119番にかけて「今、人がおぼれちゃったので急いで来てください」と連絡します。
そして浮き具になるものを投げ入れてあげること。ペットボトルでも釣り様のバッカン(クーラーボックス)でも結構です。浮き具を持つ力のある方でしたら、これでとても楽になります。その後、救助隊が到着するまでは、自分は陸から流れていく人に一緒に付いていき「うえを向いて」「泳がなくていいよ」「救急隊を呼んであるよ」と声をかけ続ける。これはぜひやって欲しいことですね。
自分が泳いでいくのという自信がある方でも、まず相手がつかまることができるものを投げてあげて、その後で助けに行ってください。救助のときは浮き具を引っ張ってくるようにすれば自分もしがみ付かれなくて安心です。また泳いで助けに行くのであれば自分は身軽になるために服を脱いで飛び込むことが大切です。あれば自分も浮くグッズを身につけましょう。最近では救急医療を学ぶ仲間でもある「着衣泳研究会」が教科書を出帆しており、また全国のプールや学校を舞台にこのような講習を行なっています。
夏になる前には、ぜひ新しい「命を守る着衣泳」を親子で一緒に学んでおいて戴ければ安心です。
不安解消のためのホットライン
よく、ひとの手当てはしてみたけれど、本当にこのやり方でよかったのだろうか、また助けてあげたものの自分自身の身(感染)は大丈夫だろうかと心配になることがあります。
例えば通りがかりに、前を歩いていた人が突然倒れてしまう、心臓が止まってしまっているかもしれないという状況で、手当てを一生懸命やったとします。
救急車が到着すると、救急隊はせわしなく作業をしてすぐに現場を離れてしまいます。見知らぬ人の救助をした場合には救急車に乗って同行することはまずありません。
連れて行かれた人はその後どうなったのだろうと心配になることもあります。自分の処置は適切だったのか、と悩んでしまいます。
家族のケアをした際にはそれどころではないので不安を口に出すこともできません。あとで、この気持ちを持て余していることも多いです。
また、交通事故の現場で血だらけで倒れている方を手当てしてあげたとき、患者さんは救急車で連れて行かれますが、家族でない第三者、つまり血だらけの私は放っておかれます。あとになって急に血液感染が心配になる方もいます。急病と同じく、あの人は助かったのだろうか、が気になることもあります。そういう方たちの不安がきちんと解消できるルートがあればいいのですが、日本ではまだまだフォローの手段がないのです。
そのようなときのために、日本ファーストエイドソサエティでは電話相談の窓口(ホットライン)を開いています。
阪神・淡路大震災の折り、またアメリカで起こった9・11テロの際に、多くの救急隊員が現場でケアをしたのですが、あまりの状況の壮絶さに心を痛め、PTSD(一ヶ月以上続く心的トラウマ、外傷後ストレス障害)になったとの報告がされるようになりました。
また米国だけでなく国内でも、小中学校で重大な死傷事故や事件があった時に、先生や養護の先生、看護師などがとても辛い思いを抱え、それが解消できなくなってしまったという例があります。
こうした事件以降、訓練を受けた職業人であっても心的ストレスで傷つくことがあるということがわかってきて、日本でも厚生労働省や総務省により、プロの救助者に対する心のケアの体制ができて来ました。けれどもその目は一般市民にまでは向いていません。
一生に一度あるかどうかという救急の現場に遭遇し、救助や救急のお手伝いをした一般市民が、善意の行為の結果、心をいためる事態があってはなりません。現場で不安が解消できれば一番よいのですが、解消できないことも多いのです。そんな時、家族や友人に話をすれば少しは解消されるでしょう。同じように、ホットラインに電話をしてこられる方がいます。電話口で少し話しをするだけで、ご自分のしたことを整理でき、安心できることもあります。また、血液感染が心配だという場合には、ケアした相手を特定するのは個人情報保護法など様々なハードルがあってとても大変ですが、ホットラインが調べるルートを一緒につくったり、それができないときには保健所に依頼して、検査をする方法をお伝えすることもあります。とにかく「不安に思うのは当たり前」、「安心した」、「大丈夫だ」、「自分は実社会でちゃんと生きていける」と思ってもらうことが大切なことだと思っています。こんな活動も「ファーストエイド」のひとつだと思って、JFASメンバーはホットラインを続けています。
子どものころからファーストエイドを知って欲しい
これまで4回に亘ってお話してきました活動に加えて、「2010年、命の教育」プロジェクトというロビー活動を展開しています。
救急法や応急手当て(一次救命処置)は、最近では色々なところで習うことができます。自動車免許の取得時講習でも必須科目ですし、高校の授業で習うこともあります。私学ではもう少し早く、中学校で習うことも多いですね。それでも遅いと思っています。もっともっと前に、幼少の時期から救急法を身につけてほしいと思うのです。
アメリカやヨーロッパでは幼稚園、保育園から子どもたちに救急法を教えています。別にその年齢からCPR(心肺蘇生、人工呼吸や胸骨圧迫)をしろと言っているわけではなく、身近なケアの方法から学んでいけばいいのです。
例えば、幼稚園児には誰か知らない人が倒れていたら、お母さんを呼んでくることを教えます。小学生になったら「おじさん大丈夫?」と声をかけてあげることを覚え、声をかけたけれども反応がなければ大人の人を呼びに行く。そういうことを少しずつ少しずつ知っていって、小学校の高学年にでもなれば、後輩の子どもたちを連れて川とかプールに行くこともあると思うので、CPRも体験しておくといいと思います。子どもたちが心肺蘇生の練習をするのに大きな人形では大変なので、子どもと同じサイズの人形を使って実施することもあります。「一生懸命、力をかけて押していいんだよ」というように、大人の授業とは違う表現で授業をしながら子どもたちにも命を救う術を伝えていく。それを私たちおとなが伝えられるように、大人の学びも本当にやっていきたいと思っています。
ひとつの手段として厚生労働省や文部科学省に赴いて、「命の教育を、もっともっと小さい世代から学校の授業の中でやっていきましょう」という提言をさせて戴いています。
現在は、小学校から高校まで、総合教育の時間や土曜日に学校にお邪魔して救急の話や実習をさせて戴いていますが、1学年、1年に1時間ぐらいの授業しか戴くことができないので、本当に身に着けていただきたいことがなかなか伝わりません。
もっともっと社会全体として、子どもたち自身と家族の安全のために予防やケアを含む救急関連の学習を展開していただくために、上記の省庁に「命について知る授業を教科として認めていただきたい」との提言をさせて戴いているのです。
実際には一教科としての独立した授業をすることは難しいでしょうけれども、少しでも学校教育規模で「安全・安心・健康を学び実践する」ことができれば幸いと思っています。
以上、4回に亘ってJFAS(特定非営利活動法人日本ファーストエイドソサェティ)の活動をご紹介してまいりました。
この中で、ひとつでも、「面白そうだな」、「子どもたちに引き継ぐ活動を一緒にしてみようかな」と思って戴けましたら嬉しいです。宜しければぜひご一緒に活動に参加してみてください。(事務局アドレスはコチラです)。