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防災インタビューVol.21

子ども達への防災教育と実践

放送月:2007年7月
公開月:2008年3月

諏訪 清二 氏

兵庫県立舞子高校教諭

実体験を生かした卒業生たちの活躍

県立舞子高校で環境防災科がスタートしたのが2002年4月なので、今年で6回目の生徒が入っています。一期生、二期生、三期生はもう卒業して、大学や専門学校などのいろいろなところで活躍し始めているところです。卒業生にはいろいろな形で防災にかかわってくれている生徒たちもいて、とても心強いです。

例えば、ある女の子は震災でお母ちゃんを亡くしたのです。お母ちゃんを亡くしたことで、半年ほどは言葉を無くして、ずっとつらい思いをしてきました。高校に入ってからも、「やはり震災の勉強は嫌だ。お母ちゃんを思い出すから学校をやめたい」と言っていた子なのですが、卒業してから3回ほど、徳島、三重、奈良で話をしてもらったことがありました。奈良の工業高校に行った時に男の子ばかりの体育館で、お母ちゃんがどういうふうに死んだのか、その死んだお母ちゃんに対して自分はどんな思いがあったのか、今、自分はどういうつもりで生きているのか、ということを話してくれました。いつも彼女がしゃべった後、僕がしゃべるのですが、彼女が5分、10分しゃべると、後が続きません。僕も続きません。そして、後で彼女がメールで「ごめんね、しゃべりにくかったでしょう」と謝ってくるのです。しゃべりにくかったのは事実ですが、でも、そうやって自分のお母ちゃんの死んだことを何とか伝えて、その話を基に、ほかの人には地震に備えてほしいと思って、一緒にしゃべってくれる生徒がいます。

バンダ・アチェで心のケアの話

また舞子高校では海外に生徒たちを連れて行っているという話をしましたけれども、実は「海外で防災教育の支援をしたい」ということで、サイド(SIDE)というグループをつくった卒業生もいます。サイドというのは、Sはサポート(Support)、Iはインターナショナル(International)、Dはディザスター(Disaster)、Eはエデュケーション(Education)ということで、「国際防災教育支援団体」というグループをつくりました。彼らは実は舞子高校のネパール交流の中心的な人物で、何度もネパールに行って感化されて、海外で防災のために働きたいと思っている生徒たちなのです。現在はスリランカに行って、彼らは子供たちに読んでもらうための「心のケアの絵本」というのを作りました。私も助言はしましたけれども、トラウマ・カウンセリングの専門家の方にも意見を聞いて作りました。「心が苦しい人たちのそばに、しっかりと寄り添って、痛みを聞いてあげましょう」と、そういう内容の英語で作った絵本です。それをスリランカとバンダ・アチェに持って行き、実際に向こうの学校の先生の前で演じたりしました。スリランカの先生にそれを渡して、学校の授業でそれを使ってもらい、今でもメールでやりとりしています。きっかけはこちらでつくりましたけれども、もう既にこちらの手を離れて、どんどん活躍してくれています。この夏、舞子高校の生徒もネパールに行きますが、卒業生も1週間は舞子高校生と一緒に活動します。生徒は1週間で神戸に帰ってくるのですが、残り1週間は卒業生だけでネパールの学校で防災教育をしたいと言っています。そんなことを頑張ってくれている卒業生もいます。(彼らはこの活動をしっかりとやりぬいてくれました。)

再建されたアチェの学校

また、地元の神戸学院大学というところに、「防災社会貢献ユニット」というのができまして、そこに進学した生徒も一生懸命、防災教育を展開しています。姫路の小学校に行って防災教育をしたり、防災教育チャレンジプランという日本全国で防災教育をしたい学校・地域を支援するプランがあるのですが、実は昨年度、最優秀をもらうほど立派な取り組みをしました。そこでも舞子高校の卒業生たちが中心となって頑張ってくれています。

そういった組織やグループに属さなくても、母校から呼ばれて自分の出身中学に行って防災の先生をしたり、あるいは奈良に下宿している大学生が小学校に行って防災の先生をしたり、あるいは今度大学2年生になる卒業生(2007年度)がいますが、徳島に行って、すぐ市民防災リーダーの資格を取って、行政の人と一緒になって徳島市内や美波町などで子供たちに防災教育をしているようです。

高校で勉強したらそれで終わりではなく、そのままどんどんつなげて、防災教育を自分が住んでいる地域に広げようというふうに頑張ってくれている生徒たちがたくさんいます。

被災地の長期的な支援の必要性

阪神・淡路大震災から12年以上たちました。たくさんビルが建ち、当然、鉄道やライフラインは全部復旧していますし、新しいきれいな建物がたくさん建っていて、見た目には本当に復興しているように見えます。そして、多くの人にとっても復興しているのだという実感はあると思いますが、一方で、地震で家を無くされた方々が入居している復興住宅での孤独死・独居死もまだまだたくさんあります。年間に何十という数字で、そういった事実が出てきています。

もう1つは、震災の時、被災地でまず被災者を支援し始めたのは被災者です。被災の軽い人が、被災の重たい人を支援しました。その支援の形態が今もずっと続いていますが、支援している人も、どんどん高齢化してきています。ある生徒のお父ちゃんもずっと震災後、支援を続けています。仮設住宅に入った時にどんどん人が死んでいくので、「生きて仮設を出よう」というスローガンを作って、朝暗いうちから夜中まで、仮設住宅のお年寄りの見回りを続けたお父ちゃんなのですが、そのお父ちゃんが今も復興住宅に住んでいて、ずっとお年寄りの茶話会やクリスマス会を行ったり、娘を通して娘の友達である舞子高校の生徒も連れて行って活動をしていたのですが、自分も体を壊すし、なかなか若い人が来てくれないということで、「しんどいな」ということをおっしゃっていました。ある時、「もうやめる」ということをビラを作って、自分がお世話している人の家にまいていきました。しばらくしてピンポンとチャイムが鳴って出てみると、そのビラを持ったお年寄りがいっぱい集まっていて、「あんた、私らを見捨てるつもりか」と言われてしまったということでした。「わし、逃げられへんねん」という言い方をされていますが、そういった形で被災者を支援してきた被災者自体にも支援がいる時代になっています。

実際、今でも、復興住宅の見回りをしているボランティアもありますし、温泉に連れて行ったり、茶話会をしたり、本当に地道にやっているボランティアがあって、そこに県外からも修学旅行で来た子供たちが寄ってくれて支援してくれるということは、まだ続いています。しかし、どうもそれが神戸以外の人、阪神・淡路以外の人にどこまで知られているのかが疑問に思えています。

そこで僕が今考えているのは、そこに舞子高校の生徒にもどんどん行ってもらいたいということです。復興住宅の支援をされている方に外部講師ということで授業に来ていただいて、話をしてもらったのですが、授業が終わると何人もの生徒が、自分も行きたいということで学校から地下鉄に乗って、近い所ですから行くようになりました。

このように、これから舞子高校の生徒も含めて若い子が、復興住宅にどんどんもっと入っていって被災者を直接支援する、あるいは被災者を支援している人を間接的に支援する、ということが大切だと思います。若い力があるというだけで、違うと思っています。そういう取り組みを、これから続けていかなければなりません。阪神・淡路だけではなくて、新潟でもそうなのです。門前町でもそうなってくると思います。ですから、被災地での支援といったときに、私たちは復旧・復興だけではなく、長期的な10年・20年のスパンで人々を支援してくことも考えていかなければならないと思います。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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