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防災インタビューVol.48

阪神大震災から学ぶ耐震対策の重要性

放送月:2009年3月
公開月:2010年6月

隈本 邦彦 氏

江戸川大学教授

プロフィール

私は1980年、昭和55年にNHKに入りまして、それから25年間、NHKの記者として働いていました。日ごろのニュースのための取材をして、アナウンサーが読んでいるニュース原稿を書くのがNHKの記者の仕事です。私は地震の防災と医療の2つを自分のテーマとして25年間、記者として働いてきました。2005年に北海道大学に科学技術コミュニケーター養成ユニットという、科学のことを世の中に分かりやすく伝える人材を養成する教育プログラムができまして、NHKを辞めてそちらに行きました。去年の4月からは、千葉にあります江戸川大学のメディアコミュニケーション学部の教授をやっておりまして、北海道大学のほうは客員教授として年間20回ぐらい教えに行っていて、今は2足のわらじを履いている状態です。
地震や医療などの科学の難しい話を世の中に分かりやすく伝えるというのが僕の仕事でしたので、今は科学ジャーナリズムとか、科学を世の中に伝えるコミュニケーターの養成という分野で、今まで自分の仕事でやってきたことが教育に生かせるということで今、教育界に入っています。
実際に大学では、どうやったら科学的な難しい話を世の中の人に分かりやすく伝えられるか、というスキルを身に付けさせる養成と、あとは「科学者と世の中の人たちが、どういうふうなコミュニケーションを持つべきか」といった理論を教えたり、江戸川大学のほうでは、将来メディアで働くことを目指す学生たちに「科学ジャーナリズムはどうあるべきか、こうあるべきだ」というような話をしています。

本の執筆を通して

1986年に伊豆大島の三原山が噴火した時、私はNHKの気象庁担当でしたので、あの大噴火、それから全島避難あたりまで、ずっと現場で取材をしていました。そのことをNHK取材班でまとめた本を1冊出しました。伊豆大島の噴火についての本です。それから、もう1つのテーマである医療のほうでは、自分1人で書いた本としては、患者の権利をテーマにした看護師さん向けの本ですけれど『患者の権利についての25章』という本と、最近話題になっている医療事故について『医療、看護事故の真実』という本を出しました。そういう意味では今まで自分の取材テーマである医療と災害をずっと取材して、その蓄積を何とか出版という形で還元しようとやってきました。これも皆さんから頂いていた受信料のお返しのつもりです。

取材中に阪神大震災に遭遇

阪神大震災の日に、私は東京の科学文化部というところの記者で、私のもう1つのテーマである医療の取材で、たまたま出張で神戸に行っていました。95年の1月16日に取材に行って、その日に、お医者さんと患者さんにインタビューして翌日、患者さんのインタビューの予定があったので、そのまま神戸に泊まりました。お医者さんの推薦で、神戸の三ノ宮の駅の近くの北上ホテルに泊まったのですが、その翌日の朝17日に、この阪神大震災に遭遇してしまいました。そこは何と震度7の地域でした。
私の居たホテルも倒壊してしまいました。ホテルの1階にはロビーとフロント、あと喫茶店ぐらいしかありませんが、その1階の柱が全部折れて、ドンと1階部分が落ちてしまいました。私は寝るときには4階に寝ていたましたが、目が覚めたら3階だったのです。ものすごい揺れでしたので、とにかくホテルの横にゴジラみたいな怪獣がいて、意地悪して手で揺らしているみたいな感じでした。もう地震という感じではなかったです。それ以前には伊豆大島で震度5までは経験がありましたが、もちろん震度7は初めてでしたからびっくりしました。震災の経験者は皆言いますけれど、ものすごい音がして揺れて、それで当然目が覚めて、ワァーという感じだったのですが、揺れが収まった瞬間に今度はシーンと、全く無音になります。真っ暗で無音で、その時に何が起こったのか分からず、びっくりしたというのは、やはり震災の経験者は皆同じようにお話しされています。
それで、とにかくNHKの記者で、現場に居合わせたわけですから、すぐ取材活動に入らなければいけないと思いました。隣にカメラマンが寝ていましたので、僕もすぐ服を着て廊下に出て、カメラマンの部屋をドンドンとたたいて「大丈夫ですか?」と言ったのです。そうしたら「大丈夫だけど、ドアが開かないんだよ」と言うのです。実は阪神大震災みたいな大きな震災があると、コンクリートの建物が壊れたりして、ドアが開かなくなります。ホテルのドアは鉄の枠の中に鉄のドアですから、変形すると開かなくなってしまいます。そのホテルの場合、内開きだったので「悪いけど隈本君、ちょっと押してくれないか」と言われて、僕はノブをねじって、アメリカ映画みたいにバンと開くのを期待して、体当たりして3回ぐらいドンとぶつかったら、肋骨にひびが入ってしまったのです。僕は阪神大震災そのものの揺れでは怪我をしなかったのですが、その直後に怪我をしてしまったということになってしまいました。
それでもドアは全然開かないので、しょうがないからどこかでバールとかを借りてこようと思って、階段を下りて行きました。抜いたら電気がつく懐中電灯を持って、階段を下りて行ったのです。そうしたら階段も壊れているのですが、気が付いたら地下に着いてしまいました。「あれっ」と思って上に上がると、そこは2階です。そこで初めて自分の居るホテルの1階がつぶれたことが分かりました。それで出られなくなってしまって、2階の廊下に行くと、やはり同じように出られなくなって、へたりこんでいる被災者の方がいらして、僕は懐中電灯を持ってそこに行ったものだから、助けに来たんだと思って「助けてください」とか言われたのですが、「いや、僕も同じなんです、出られないんです」と言って、それで皆で相談して、皆いろいろなことをやりました。窓から出るためにシーツをつないでみるとか、ベッドを外にポンと放り投げて窓から飛び降りるとか、いろいろやってみたのです。でもだんだんうっすらと明るくなってきたのですが、がれきが目の前にあって、飛び降りると怪我をしてしまいそうで、我々は窓に向かって「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいましたら、どなたか近所の方がはしごを持ってきてくださって、それで2階と3階の間の階段の踊り場の窓から皆、脱出しました。
結局、阪神大震災の時、多くの人はそうやって、近所の人とか、ご家族とか、そういう人に助けられています。実際に消防も警察も被災していましたので、ほとんど救助活動というのはできなかったのです。ですから、ほとんどの人が我々みたいに「助けてくれ」と叫んで、近所の人や誰かの機転ではしごとかで助けられた、というのが実際のようです。
防災担当の記者がたまたま別のネタで神戸に居る、というのは本当に運がいいのか悪いのか分かりませんが、それから取材活動に入りまして、すぐカメラマンと一緒に撮影をし、インタビューをし、取材活動に入って3日間ぐらいしてから、番組を作るために大阪局に行きました。その時に、最初にひびが入った肋骨がちょっと痛くなったので、3日目か4日目に家に帰してもらいました。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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