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防災インタビューVol.65

防災まちづくり ~東日本大震災に学ぶ~

放送月:2011年7月
公開月:2011年11月

渋谷 和久 氏

国土交通省総合政策局政策課長

プロフィール

私は今、国土交通省の総合政策局政策課長というポストにおります。国土交通省の政策全般を担当するポストですが、3月11日の大震災発生後は災害対応、特に今現在は復興の政策の取りまとめをしております。

実は私は、3月11日の災害発生以来4カ月間、ほとんど家に帰っていない状態が続いています。初めて日曜日に家で夕食が食べられたのが先週だったという状況です。ただ、本当に現地で厳しい生活を送られている被災者の方々のことを思うと、僕らも「大変だ、大変だ」と言っていられないので、とにかく一日も早く復興を軌道に乗せるために頑張っているという状況です。

東日本大震災の発生

3月11日午後2時46分、私は国会近くの議員会館のエレベーターに乗っていた時に、ものすごい揺れがありました。多分、古い議員会館だったら、そのままエレベーターに閉じ込められていたのではないかと思いますが、新館だったので「地震を感知しました、直ちに降りてください」というインフォメーションがあり、エレベーターは最寄りの階に止まりましたので出ることができました。私は結構がっしりした体形ですが、それでも立っていられないぐらいの揺れでした。びっくりして、すぐ役所に戻りまして、それからもう大変な日々が続きました。

この地震はマグニチュード9.0で、我が国では観測史上最大で、世界でも20世紀の初めから110年たつ中で4番目という、かなりの大きな地震だったということになります。最大震度が震度7でした。よく震度が幾つということでテレビなどには出ますが、僕らが気にしているのは面的震度分布というものです。例えば、ある一つの町で強い揺れが観測されただけでは、あまり大きな地震ではないのですが、震度6を超えるようなエリアが広範囲にわたっている場合は、被害も甚大になります。今回の地震では、私は役所に戻りまして震度分布を見て「これはものすごい地震だ」とがくぜんとしました。実は宮城県では30年から40年に一度、宮城県沖地震というものが起きるので、最初はこの宮城県沖地震だと思っていましたが、宮城県沖地震は大体震度が7弱、マグニチュードも7クラスなので「ちょっとそれにしては大きいな」というような感じがしていました。その後、分かってきたことは、地震というのはプレートが割れて跳ね上がって起きるわけですが、これが一つだけではなく、三つ連動して大きな地震が一遍に起きたので、それに伴って大きな津波が起きました。あまり使ってはいけない言葉ですが、まさに「想定外」ということだったのではないかと思います。

この地域の地震は、地球の表面を覆っているプレートが日本海溝で沈み込む時に、陸側のプレートを引っ張り込むわけです。それがだんだん耐えきれなくなって跳ね上がる、それで大きな津波を起こすということですが、この割れ方が非常に大きかった、非常に広範囲だったということです。私たちも実は、この辺りは大きな地震が起きそうだということで前々からウオッチはしていたのですが、こんなに大きなものというのは正直びっくりしたというのが現実です。

復旧への第一歩 ~まず道路をあけること~

国土交通省の現地の組織に東北地方整備局というところがありますが、地震の直後にどういう対応をしたかについて紹介させていただきます。東北地方整備局では、道路を一刻も早く通れるようにしなければいけないということに、まず力を注ぎました。被災地で救命救助活動を行う部隊が、まず被災地に駆け付けるためには道路が通っていなければいけませんし、避難されている方々にいろいろな救援物資を届けるにも、道路が通っていないとどうしようもないわけです。まず真っ先にしなければいけないことは、道路をあけるということです。これは阪神淡路大震災の時の教訓でもあります。

しかし、大きな津波が広範囲にわたって町を壊滅的に破壊し尽くした後で、国道45号線という沿岸を通る大動脈はズタズタになっていて、橋という橋は落ちて全く通れない状態になっていました。普通に考えて、これを復旧するのはものすごい時間がかかるのですが、現地の職員が「とにかく一刻も早く道路をあけなければいけない」ということで、真ん中を通っている国道4号線と高速道路の復旧を行いました。国道45号線や沿岸の道路の復旧はかなり難しいので、それは後にして、まずは縦線を復旧し、とにかく被災地に行く道路である横のラインを次々にあけていきました。真ん中の高速道路を開き、そこから東に向かう、ありとあらゆる道路を立て続けにあけていったこのやり方を「くしの歯作戦」と呼び、髪をとかすくしの歯の1本1本を次から次へとあけていき、地震発生から4日目にして、迂回しないと行けない所はありますが、ほとんどの市町村へ何らかの形で通れるようにし、7日目には、97%のエリアをカバーできたということです。あれだけの被害の中で、とにかく道路をあけることが第一だということに思いを定めて、皆で一生懸命やったことは、非常に大きなことではないかと思います。

ガソリンを被災地へ

これもあまり想定していなかった事態ですが、何とか道路は開いたものの、ガソリンがないという問題が発生しました。支援物資が各地から次々と届けられて倉庫にうずたかく積まれていましたが、そこから避難所に送るのには現地の小さな車で運ばなければいけません。しかしガソリンがないので、運ぶことができなかったわけです。ガソリンの基地は皆海沿いにありましたが、港が破壊されていて全く使えませんし、海の中にはがれきがたくさんあって、タンカーを港に着けることができませんでした。最初は日本海側からタンクローリーで運びましたが、これも限界があります。次に貨物列車を使おうということで、石油列車というのをJR貨物が走らせました。しかし、まだ東北本線が走れなかったので、この列車は横浜を出発して、磐越西線を使って福島から日本海側にいったん出て、青森まで行ってから南下するというルートを通ることになりました。磐越西線という所は、JR貨物は一度も通ったことがありません。そこで、JR東日本の運転手が交代して運転することになりました。このルートは非常に勾配がきついので、機関車を2両つないで、それでも足りず、後ろからもう1両つないで、石油貨物を押していくことになりました。その後、青森まで運んでさらに南下して、仙台の基地まで運んだということです。

その一方で、港湾もとにかく早くあけようということで、仙台塩釜港を基地として、21日であけました。これも大変な苦労をしましたが、一刻も早くガソリンを被災地に届けたいという思いで、現地の人たちが一生懸命頑張りました。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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