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防災インタビューVol.120

災害に備え、災害に臨機応変に最善を尽くす

放送月:2015年9月
公開月:2016年4月

原口 兼正 氏

元セコム社長

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

プロフィール

昭和49年に武蔵工業大学、今の東京都市大学を卒業して、当時は日本警備保障株式会社といいましたが、セコム株式会社に入社して、そのままずっと今までセコム一筋で仕事をしてきました。セコムは本業の警備で始まって、現在では社会システム産業といって、医療なども含めた相当多くの事業をやっています。

私はその中のほとんどの部門に携わってきました。一番長くいたのが企画で、セコムでは業務といいますけれど、警備そのものもやってきました。コンピューター部門や営業も結構長くやりまして、その後、社長をやり、現在は半分引退して今を迎えています。

セコムは本業が危機管理ですので、全国で洪水や地震などの災害があると社員を総動員して対応します。私は、阪神大震災の翌日の昼前にはヘリコプターで現地に入って神戸の会社にいましたし、東日本大震災の時には、津波があってから12日目ぐらいに北から南の沿岸の事業所を回ってきました。

阪神淡路大震災直後の神戸へ

阪神淡路大震災が早朝に起こるとすぐ、セコムは対策本部を立てて、2機あるヘリコプターのうちの1機を第1便として、支援の物資を積んで当日の昼過ぎには東京を出発しましたが、神戸への着陸が許可されず大阪の八尾空港に降ろされました。そこから持って行ったものを車に積んで神戸に入ったのですが、国道2号線が大渋滞で動きませんでした。第2便も八尾空港に降りたのでは用をなさないので、当時取締役になっていた私が同乗して、なんとかパイロットと管制塔を説得して神戸に降ろそうという目的で神戸に向かい、埋め立てで造られたポートアイランドのヘリポートに着陸許可が出て、無事降りました。ただ下が液状化しているので、まずヘリが降りて、そこから神戸に渡る橋を徒歩で渡って行こうとしたのですが、交通規制をしていて最初は渡してくれませんでした。前日の晩にテレビでポートアイランドは液状化でぬかるんでいることは見て知っていましたので、着ていくものをどうしようかと考えていました。ジャンパーなどで行ったのでは、どこの誰か分からないと思いましたので、私はきちんと背広を着て、なおかつ長靴をバックに入れて行きました。このような格好ですし、うちは商売柄警察との関係は深いですので、行きたくて行くのではなく、うちの社員とお客さんのための救援物資を持ってきたので橋を渡らせてほしいと、いろいろ折衝して、自己責任ならばということで歩いて渡ることになりました。橋には60cmくらいの隙間ができていて、下を見ると波がチャポンチャポンしているのが見えて「結構、怖いな」と思いました。橋の向こう側にはうちの会社の車が来て待っていましたが、その時にそこを車が通っているのを見ましたので、「あの車はなんだ?」と聞くと、警備の人間が食べる弁当を運んでくる仕出し屋だということだったので、「われわれはもっと大事な救援物資を運んでいるのだから、通してほしい」と言ったら、セコムのステッカーが付いている車両だったら、今後はフリーパスで行きも帰りも通る許可をやっと取りつけました。これで私の仕事はひとつ終わったと感じました。

このとき、もうひとつ困ったのは、ヘリコプターいっぱいに積んだ救援物資をライトバンで取りに来ましたが、車を何台用意したらいいかが分からないということでした。現地では、荷物を置いたままにしておくことはできないですし、何度も行き来するのも大変なので、東京に連絡したところ、資材系の若い社員がパソコンのソフトをつくってくれて、持っていくものの数を入力すると車が何台必要かが分かるようになりました。その精度がだんだん上がっていって、その後の東日本大震災でも結構このノウハウは使えました。ヘリコプターといってもジェットヘリなので、普通に乗るには6人乗りですが、戦争で使う時にはこれに12人以上乗るわけです。従って相当な分量の荷物が積めるわけですから、荷物によって用意する車の台数が分かるソフトがその時は非常に助かったという経験をしました。ただ、車から降ろした荷物を、エレベーターが止まっていたので6階まで担ぎ上げるのが一番大変でした。

阪神淡路大震災直後に現地に入った時に、まちの様子はテレビでは見ているけれども、現実はどうかというのがまず最初に気になりました。行ってみると、やはり全然問題ない所と本当に壊滅的になっている所がありました。到着して一番衝撃的だったのが、高速道路の橋脚がみんな折れて倒れている現場でした。これはやはりいくらテレビで見ていても、自分の目でその下を通ってみると「何というすごいことが起こったんだろう」という印象が一番強かったです。その後、首都高などでも橋脚補強は進みましたが、やはりあれはショックでした。

震災直後の町の様子

阪神淡路大震災の時には、私たちは携帯電話を持っていました。当時はまだ古い形でバッテリーが外付けになっていて、スペアのバッテリーを持っていればいつでも使えるというタイプでした。その時は、東京からはなかなか電話がつながらなかったのですが、現地に入ると現地の中の電話はわりと通じました。

よく災害時には「公衆電話は比較的通じるので、公衆電話を使え」と言われていますが、当時は停電して公衆電話が使えなくなってしまいました。この頃、ちょうど赤電話が順次黄色い電話と緑の電話に変わっていった頃だったのですが、100円玉が使える電話は停電してしまうと使えません。それで電話局の前には黒電話がズラッと置いてあって、自由に使えるようになっていました。このように電話線がいくら通じていても、電気が必要な電話機だと使うことができませんが、旧型の黒電話などで電話線をつなげるだけの電話機は使えました。

それまでテレビでは悲惨な状況を流していましたが、こうしていざまちの中に入ってみると、全然壊れていないビルもたくさんありました。テレビというのはなるべく見応えのあるものを出そうとするので、隣でピンピンしているビルは映さずに、その隣で倒壊している所を必死で撮るわけです。私が現地に行って東京の本社とやりとりをすると、最初に上の人から「変なことを聞くけれど、テレビと同じか?」と聞かれました。私は「すごい所はテレビと同じですけれど、全然問題ない所もたくさんあります」と答えました。それからもう一つその時に感じたのが、コンクリートの電柱が非常に弱いということです。道路に沿って電線があるので、電柱が倒れるのは道路側か住宅側で、非常に多くの電柱が倒れて道路を塞いでいました。この電柱は鉄筋が入っているので、撤去が非常に大変です。鉄筋を焼き切って外す復旧工事に相当手間取っていました。神戸の街は、電線が地下に入っていて地上に電柱がない場所と、電柱がたくさんある所と隣接しています。表通りの所は電柱の倒壊の被害はほとんどないので、停電もしていませんでした。非常に不思議な景色だったのが、震災の翌日、自動販売機にまだ缶ジュースが残っていて、停電もしていないので、自衛隊の給水車にバケツを持って並んでいる人が、自動販売機で買ったウーロン茶か何かを飲みながら待っている様子です。その後は当然全部売り切れになって使えなくなってしまったと思いますが、大きな地震や津波などがあっても、その直後は結構電話はつながりますし、物も売っています。ごく短時間に必要な物資の調達か何かを手早くやれば、ある程度持ちこたえるぐらいのことはできるのではないかと、この時も思いましたし、東日本の時には、現地はむしろ積極的にやっていました。

※今回のインタビュー記事は、東急電鉄の協力のもと、「FM salus」が過去に放送した『東急建設 presents 「サロン・ド・防災」』の内容を、一部改定して掲載しています。