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防災インタビューVol.121

楽しく、明るく、元気に 防災情報発信

放送月:2015年10月
公開月:2016年5月

石川 淳哉 氏

ドリームデザイン社長

プロフィール

私は広告会社を運営している53才のおじさんです。広告会社では、CM、ウェブサイト、ポスターなど、いろいろなものを作っています。あるきっかけで、自分の職業、職能、その技術を徹底的に社会に使いたいと思い始めました。それが、今から14年前、2001年9月11日、いわゆる9.11という、国と国の戦いから、あるグループが1個のビルを攻撃して世界中を震撼させた、あの事件の時でした。

世界で拡散したチェーンメール「世界がもし1000人の村だったら」

9.11の時に世界中にチェーンメールが回りました。これは、多分世界で一番広がったチェーンメールなのですが、その内容は「世界がもし1000人の村だったら」というものでした。世界にはさまざまな課題があり、宗教はバラバラ、貧富の差がすごくあり、セクシャリティの問題も新たに起こっているし、世界の法律も違う、軍隊の持ちようも違う、いろんなことが違うので、世界はなかなか一つになれないという話でした。ただすごく長くて、極めて難しい内容のメールでした。それを「ベルリン天使の歌」という映画の翻訳で有名な池田香代子さんが、「これを絵本にしたい」と言ってくださいました。出版社がマガジンハウスというところで、僕は実は学生時代にマガジンハウスでアルバイト、フリーライターをやっておりまして、それから15年ぐらいがたった時のことでした。大変お世話になっていたその時の編集長が「石川淳哉、ちょっと来て手伝え」と、首根っこをひっつかまれて、安い金額でやらされたのが、皆さんご存じの「世界がもし100人の村だったら」という絵本です。

1000人を100人にする時に、やはり900人置いてきぼりにするわけなので、10分の1に圧縮して、情報を10分の1にするということですよ。そうすると1000人の時には、マイノリティの人たちのように世界で3人という人たちが出ていたのですが、10人以上にならないと1人としてカウントできないわけです。そこで、すごく分りやすい入り口をつくりました。当時、われわれが決めていたのが、小学校3年生の女の子が夜寝る前に、お母さんが読み聞かせをしてゆっくりベッドの上で世界のことを考えるというもので、そんな時間を初めてつくりました。それが、僕のソーシャルグッドとクリエイティブの目覚め、入り口となりました。

この本が12月の頭に発売になり、初版8千部で非常によく売れました。ちょうどクリスマスプレゼントの時期でもありまして、お母さんが子どもにプレゼントする、恋人が恋人にプレゼントするというような流れが起きたのか、12月中に30万部、3月ぐらいまでに、100万部を突破しました。それからテレビ番組になったり、いろんなことに展開を見せ、いわゆる社会現象になりました。

それまで僕は広告でCMやポスターを作ったり、いろいろしていたのですが、この無理やり巻き込まれた絵本プロジェクトは、本当に背筋がゾクゾクする体験でした。このことは、今から思い出してみても、僕の人生の結び目の一コマ、ワンシーンになりました。このことを通して「あれっ、これがクリエイティブの醍醐味だな」と思いました。分かりにくいもの、ともすれば人が見過ごしてしまったり、本当は大切なのに面倒くさいから放っておいてしまうようなことを、面白く楽しく分かりやすく編集し直すことで、人は受け取ってくれるんだ、だったら僕の人生はそこに費やそうと思った瞬間でした。

第2の転機

9.11からもう今は15年ほどたちます。その間にいくつもいくつも広告の仕事をやりながら、社会課題の解決とクリエイティブということを模索しながらやってきました。クライアントの方からは、そういう話は出てきませんので、僕が無理やりプロジェクトを作って、「これに協賛していただけませんか」「みんな一緒にやってくれないか」というのをいろいろなところに言いまくって、いまだにやり続けているという、そんな感じで進めています。

第2の転機というものが、皆さんご存じの2011年の3月11日です。この日、私は何をしていたかというと、会社が拡大傾向にありましたので、麻布十番の広いオフィスを借りて、そこのパーティスペースで、広告業界の重鎮の方々200人くらいを招待して、夕方6時からパーティを企画していました。そのパーティを行う日の2時46分に地震が来てしまいました。麻布十番の8階にあるオフィスビルは、やはりとても揺れました。その時に、私が何を感じたかというと、世の中に何か課題や問題があったときに、自分の「伝える」という技術が何か役に立つんじゃないか、そうしなければならないと即座に思いました。この地震は、そのぐらい大きな問題だということを、その後の津波が東松島市を覆っていく、あのテレビの映像などを見ながら、僕は多分ここに突っ込んでいくんだろうなというふうにその時思いました。

この時点では、防災の香りはしていますが、防災というよりは、緊急支援、復興、まちづくりというフェーズで考えていました。起きてしまったことはしょうがない。ここから先、さまざまな情報のマッチングやまちづくりをしていくために、きっとコミュニケーション、クリエイティブ、その辺りをやれる僕にとって何かできるはずだというふうに強く思いました。

その日はオフィスの引っ越しパーティ、ローンチパーティをしているところで、食べ物と飲み物は大量にありましたので、帰れない人をまずビルに迎え入れました。何人もうちの会社で寝泊まりをして、朝帰ったのですが、その時にいろいろなことを皆で話しまして、僕は緊急役員会議をしました。「きっとこの1年間、僕は東北に入りっぱなしになると思う。会社が潰れても僕は文句を言わない。君たちに全てを任せるから僕をフリーにしてくれ」というお願いを役員にしました。役員は「分かりました」ということで納得してくれました。実を言うとその年、役員の頑張りで会社は史上最高益を出しました。後から考えると僕はいないほうがいいのかなと思ったのですが。

※今回のインタビュー記事は、東急電鉄の協力のもと、「FM salus」が過去に放送した『東急建設 presents 「サロン・ド・防災」』の内容を、一部改定して掲載しています。