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防災インタビューVol.173

体験に学ぶ 防災対策

放送月:2020年2月
公開月:2020年6月

奥村 奈津美 氏

フリーアナウンサー

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

プロフィール

私は、大学卒業後、広島と仙台で合わせて8年間、放送局のアナウンサーとして経験を積み、2013年から東京でフリーアナウンサーとして活動しています。リスナーの皆さんがご覧になったことがありそうな番組は、TBSの朝の情報番組「はなまるマーケット」でリポーターをしたり、直近ですと、NHK夜のニュース番組「ニュースウオッチ9」でナレーターを担当していました。またラジオではNHKの夜のニュース番組「NHKジャーナル」のキャスターを3年間務めさせていただきましたので、声だけは聴いたことがあるという方もいらっしゃるかもしれません。

私が防災に取り組むようになったきっかけは、仙台でアナウンサーをしている時に経験した「東日本大震災」です。あの日を境に、取材でお世話になった方やいつも番組を見てくださった視聴者の皆さんなど、大勢の方に会えなくなってしまいました。その後、防災士や福祉防災認定コーチの資格を取得するとともに、災害のたびに被災地を訪れて取材をしたり、ボランティア活動に参加しています。またそこで学んだ教訓を、担当している番組で発信したり、防災訓練などで伝えたりしているところです。

仙台で遭遇した東日本大震災

2011年3月11日からちょうど9年になりますが、地震が起こった午後2時46分、私は仙台市内の自宅マンションの7階にいました。その時の光景を今でも鮮明に覚えています。台所で野菜を茹でている時に小さな揺れがカタカタと来たのですぐ火を止めたのですが、その後大きな揺れで火にかけていた鍋がひっくり返ってきました。それから冷蔵庫の上に載せてあった30キロ近い重さの大型のオーブンレンジが空中を飛びまして、自分の方に落ちてきました。幸い、鍋やレンジを避けることはできたのですが、恥ずかしながら当時は何も地震対策をしていなかったので、ありとあらゆるものが降ってきました。

私が暮らしていた仙台市内は震度6弱だったのですが、まるで地球がひっくり返ったかのような揺れで、もちろん立ってはいられませんでした。台所にいては危険だということで、近くの玄関スペースに逃げましたが、その時脳裏をよぎったのが、ニュージランドのクライストチャーチでその年の2月に起こった地震で、日本人が倒壊した建物の下敷きになって亡くなられたというニュースでした。自分もこのマンションに閉じ込められてしまうのではないかという恐怖を感じ、玄関の扉を開けて外に逃げようとしたのですが、マンションから振り落とされそうな揺れになってきまして、とにかくドアノブを握ったまま、およそ4分間、ただただ揺れに耐えるだけで、揺れが収まるまで何もできませんでした。

今まで震度5くらいの地震というのは東京など、いろいろな所で経験はしていたのですが、やはり震度5と6の揺れは全く違いまして、本当に死の恐怖を感じました。それまでも、地震の際には、放送で「身の安全を確保してください」と皆さんに呼び掛けていたのですが、自分の家には安全な場所がなかったことを実感して、反省したというか、とても後悔しました。やはり普段から家の中を安全にしておくことが大切だとその時痛感しました。

74時間の緊急災害報道を経て

自宅で被災した後、放送局に戻りまして、そこから3日間、ほとんど寝ずに74時間の緊急災害報道に携わりました。私自身もヘルメットをかぶってスタジオに座って、緊急地震速報を出したり、余震に対応しながら地震の様子を全国の人に伝えたのですが、この時、放送局自体も被災しておりまして、社内でも棚が倒れたり、書類が床に散乱したり、そういった状況で何とか放送するという感じでした。実はその時放送局も停電していたので、非常用の自家発電機を使って電気を作っていたのですが、途中からそれも思うように機能しなくなり、30分間電波を飛ばせなくなり、放送すらできない状態になりました。その後、どうやって放送を出すようになったかと言いますと、スタジオからケーブルを引いて、中継車を使って電波を飛ばすようにして、スタジオに座って、衛星中継でお伝えするという状態で、最小限の電力を使って放送していました。社内では、スタジオ以外は真っ暗ですし、暖房も入れられず、寒さに震えながら放送するという状態でした。

このような状態でほぼ3日間寝ずに、食べることもほとんどせず災害報道に携わったのですが、意外とそういう時はアドレナリンが出ていたのか、眠いとか、お腹が空いたとか、疲れたとかそういう感覚もなく過ごしていましたが、震災の後、しばらくたってから体重を測ったら10キロほど痩せていたというくらい異常な状態でした。その後も1週間くらい放送局で床にタオルを敷いて、ダウンで身を包んで、ブルブル寒さに耐えながら横になって、汚い話ですが、お風呂も入れず、髪や顔も洗っていない状態で画面に出て状況を伝えるという感じで、自分たち自身も避難生活をしながら災害報道に携わっていました。

このような中で忘れられない番組があります。それは震災から9日たった20日に宮城県民向けに放送した番組で、行方不明者のお名前を2時間読み上げるというものでした。当時、宮城県警に寄せられていた、地震後に連絡のつかない方2528人全てのお名前を放送でご紹介しました。当時は固定電話や携帯電話も役に立たなくて、家族や友人の安否が何日間も確認できないという状態でしたので、放送を通して少しでも安否確認につながれば、という思いで放送しました。その他にも「避難所からのメッセージ」というタイトルで番組を作りまして、各避難所に行ってご自身のお名前と探している方の名前をフリップに書いていただいて、「私はここにいます。家族を見かけたら連絡ください」というようなコメントいただいたものを放送しました。こういった番組を通して、家族や親戚の居場所が分かった方もいらっしゃいました。当時はとにかく地元にある放送局として何かできることはないかと試行錯誤だったのですが、情報を伝えることが少しでも県民のためになれば、と思いながら放送を続けていました。

※今回のインタビュー記事は、東急電鉄の協力のもと、「FM salus」が過去に放送した『東急建設 presents 「サロン・ド・防災」』の内容を、一部改定して掲載しています。