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防災インタビューVol.173

体験に学ぶ 防災対策

放送月:2020年2月
公開月:2020年6月

奥村 奈津美 氏

フリーアナウンサー

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

被災地支援の力

私が被災地支援の力を実感したのは、東日本大震災の時でした。当時私は仙台でアナウンサーをしていたのですが、放送している私たち自身もこの世のものとは思えない光景を受け止め切れず、「私たちがしていることに意味があるんだろうか」と無力さを感じていました。編集マンもカメラマンも涙を流しながら取材活動や放送に携わっていたのですが、私たちは自分自身の家がなくなったわけでもなく、家族を失ったわけでもなかったのですが、この現実を受け止められなくなってしまっていました。そうした中で、1週間後に津波被災地を取材した時に、警察車両や災害復旧車両に書かれた兵庫県、沖縄県、広島県などの地名を見て、ハッとさせられ、こんなにも全国の人たちが応援してくれていることに気付いて、胸が熱くなりました。

また、被災された方からこんなお話しを聞きました。「阪神淡路大震災や新潟中越地震などこれまでもいろいろな災害があったけれど、自分たちは大変だなと思うだけで、何もしてきませんでした。今、同じ立場になってようやく分かりました。こんなにみんなに助けてもらって、ありがたい。遠くから来てくれて、ありがとうございました。助かりました。ただただ感謝です。自分たちは何もできなかったのに本当に申し訳ないと思っています」と話されていました。私自身も東日本大震災に遭って初めて、これまで本当に他の地域のことについて無関心だったことに気付きました。でも今回の震災を通して、自分自身、変わりたいと思いました。それで、それ以来、災害があるたびに被災地の取材をしたり、災害ボランティアに参加したりしています。微力でも誰かの力になりたいという気持ちでいつも被災地に入っているのですが、地震だけではなくて水害、土砂災害の現場にも入りましたが、復旧というのは本当に気の遠くなるような作業です。東日本大震災の津波被災地である宮城県の東松島にもボランティアに入ったのですが、震災から4カ月ぐらいたっていたにもかかわらず、泥が乾いていませんでした。その泥かきをするのですが、水を含んだ泥というのはすごく重くて、しかも悪臭もしていて、本当に大変な作業でした。そのお宅の奥さんは、「毎日毎日泥との闘いで、頑張らなくてはいけないのだけれど、疲れてしまいました。でもこうやってボランティアの皆さんが助けてくれるんだから頑張らなくちゃ」と涙を流されていました。また2015年には、関東東北豪雨、茨城県の常総市で鬼怒川が決壊するという災害がありました。その時は、川から10キロほど離れたお宅のボランティアに参加したのですが、10キロも離れているのに浸水していて、そこのお宅の方も、「掃除しても掃除しても、拭いても拭いても砂が出てくる」と話されていました。被災された皆さんは、早くきれいにしたいという気持ちで一生懸命毎日掃除されていますが、復旧というのは長期戦になりますので、「ボランティアの力を借りながら無理しないようにしてくださいね」とお声掛けさせていただいています。

ライバル支援による復興への道

私は「ライバル支援」と呼んでいますが、普段ならライバル同士ともいえる同じ業種の支援の力というのを実感した取材がありました。それは、2011年の夏に宮城県の気仙沼市で行われた牡蠣養殖業者に対する支援でした。宮城県は牡蠣の生産量が広島に次いで2番目に多いところで、中でも宮城県の最も北に位置している気仙沼市は全国有数の牡蠣の産地です。東日本大震災の時に、10メートル以上の津波が襲った唐桑町という地域では、牡蠣の加工施設や海に浮かんでいた1700台のいかだの全てが流されてしまいました。その状況を見ていたライバルの広島の牡蠣養殖業者が「何かできることはないか」ということで、牡蠣養殖に欠かせないいかだをプレゼントすることになりました。そして、いかだをただ贈るだけではなく、実際に気仙沼を訪れて一緒にいかだを作るという支援をしてくれました。しかし、気仙沼と広島の牡蠣の養殖業者さんたちは、震災以前は会ったこともない上に、地域によっていかだの作り方も違うため、なかなか思うように作業も進まず、さらに広島弁と気仙沼弁という言葉の壁もあり、コミュニケーションがなかなかとれませんでした。しかしながら、初日の夜に交流会が行われまして、そこで一気に距離が縮みました。お酒が入ったおかげもあってか、気仙沼の牡蠣の養殖業者の皆さんも本音お話ししはじめ、震災の時の話や復興したいけどなかなか進まない気持ちなど、それぞれ本音で話したそうです。やはり同じ牡蠣養殖業者ということで、おいしい牡蠣を作りたいという牡蠣に対する思いは一緒なので、最後は「お互い日本の牡蠣産業を盛り上げていきましょう」という話で盛り上がりました。その翌日からのいかだ作りは、本当にスムーズにいきまして、お互いのやり方を学び合い、心の通った復旧作業になりました。何もない海に次々といかだが浮かんでいく様子を見て、気仙沼の養殖業者の皆さんの表情もどんどん明るくなっていきました。震災で全てを失って、もう牡蠣養殖も続けられないと廃業を考えていた方が多くいたのですが、この広島からの支援をきっかけに、「もう一度頑張ろう」と再開を決意された方が何人もいました。「本当に復興したらライバルになりますから」と、そんな力強い言葉まで頂きました。

一方の広島の養殖業者の皆さんも、自分たちが行くことが本当に役立つのかと不安に思っていたそうです。1人に1台、2台というような、そんなささやかな支援だったということもあり、「本当に役に立つのかな?」という気持ちだったそうなのですが、気仙沼の養殖業者の皆さんにとっては、やはりライバルがわざわざ離れた所までやってきて、一緒に汗を流して、そこまでしてくれたのに復活しないわけにはいかないと、漁師魂に火が付きました。これは、ライバルを超えた男同士の絆、まさに同業者だからこそできる心の支援だと感じました。

その後も復興するまでさまざまな試練がありまして、2017年には台風被害が発生し、気仙沼の牡蠣は約数千万円の被害を受けてしまいました。1歩進んでまた2歩下がってという状態で、そのたびに何度も廃業した方がいいのではないかと考えたそうですが、やはり広島の養殖業者はじめ、いろいろなボランティアの方からの支援を受けたことを思い出して、その人たちのことを考えるとやはり頑張らなくてはいけないと、気持ちを奮い立たせることができたと話されていました。もし途中で諦めてしまって、地域の産業がなくなってしまえば、その地域に暮らすこと自体が難しくなりますし、過疎化も進んでしまいます。そのような中で、遠く離れたライバルが支援してくれたことで、同じ業者だからこそ必要な支援もイメージしやすいですし、その支援は大きな助けになりました。お互いにそれ以降も、広島と気仙沼の牡蠣養殖業者の交流はずっと続いています。広島で土砂災害が起きた時には、今度は宮城の養殖業者が義援金を送り、距離は離れていても、心はつながっていて、お互いのことを思いやる大切な関係が築かれていました。こういう支援の輪がいろいろな所でできたらいいなと感じました。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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