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防災インタビューVol.196

百聞は一見にしかず ~被災地から学ぶ 防災の知恵~

放送月:2022年1月
公開月:2022年4月

定野 司 氏

文教大学 客員教授

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

阪神淡路大震災の教訓

阪神淡路大震災後に、住民の皆さんの意識が変わったというのが非常に大きかったと思いますが、住民の方からたくさんの質問を頂きました。例えば阪神淡路大震災では多くのお年寄りが家屋の下敷きになって亡くなっています。お年寄りというのは、大概は2階ではなく、1階にお住まいになっています。「若い者なら逃げ出せるから、お年寄りを2階に上げたらいいんじゃないか」という質問を頂いたことがありますが、私はそれでは駄目だと思います。なぜなら毎日寝るときにはお年寄りが2階に行って、ご飯、お風呂、おトイレなどの日常生活は1階という生活では、寿命を縮めてしまうと思います。

このようにして、震災後に防災に対して、自分事として考えられるようになったのは非常に重要なことで、そういうことを細かく考えてみて、「やはりそれはこうした方がいいよね」ということを家族の中で話し合うことができたのは非常に大事なことだと思います。震災が起こって、散り散りばらばらになってしまったときには、なんとかして連絡を取り合う方法を事前に考えておこうということも当時初めて出てきた話です。その当時は、電話がつながらないという事態が多く起こりましたが、その後、落ち合う場所を決めておくということも考えるようになりました。このように、阪神淡路大震災後には、「もし大災害が起こったら」というのを自分事としてイメージできるようになったというのが非常に重要です。

その他にも、例えば災害時のボランティアというのも、阪神淡路大震災の時に初めて大学生などを中心に日本全国から集まりました。ボランティアは被災地においては、非常に重要で、発災直後は大学生がボランティアしていたのですが、4月から授業が始まってしまうため、みんな抜けてしまいました。ボランティアというのは、大災害の時は、大きな支えにもなるものだけれど、始めるのと同時に、その人たちがやめてしまった時にどうするのか、空いた仕事をどうするのかということも同時に考えておくことが大切で、そうでないと立ち行かなくなってしまうと思います。

避難所について考えてみても、おんぶに抱っこでは、続けていけません。阪神淡路大震災の時の避難所の様子を見ると、その運営には学校の先生が大勢関わっていました。そうなると、子どもたちのことがおざなりになってしまったわけです。子どもたちの親は、自分の仕事のことも心配で、自分の家や誰かを亡くしてしまっていて、子どもの面倒を見られない状況にあり、それの代わりに実は先生に子どもを見てほしいわけですが、その先生が避難所の面倒を見ていたらこれは駄目だということになります。そこで、避難所運営会議においても、避難所の実務は先生がやるのではなく、例えば「ここには何がありますよ」ということは教えていただくけれど、あとは集まった住民の方が自主的にやっていくというようなルールを作ることが必要だということが分かりました。災害を他人事ではなく、自分事にするということが阪神淡路大震災でものすごく分かりましたし、ボランティアというのも組織立って動かないと駄目だということでNPO法ができたわけです。

このように、阪神淡路大震災がきっかけでいろんなことができるようになった、あるいはできないことが分かったということも非常に重要だったと思います。NPOの活動としても、どれだけ責任を持ってできるのかというのがNPOの存在価値となってきましたし、ボランティアもただ、助けに行けばいいということではないので、今の防災計画には、どの自治体も他から応援を頂くための計画、受援計画を持っています。それがないと、人も機材も動かせないということだと思います。

私は、震災が起きてから毎年のように神戸に通って学ばせていただいて、足立区あるいは周囲の自治体の防災のあり方について、どうあるべきかを考え、いろいろなことをさせていただいて本当に感謝しています。神戸の復興もままならない中でいろいろなアドバイスも頂きました。阪神淡路大震災から3年後に神戸大学のシンポジウムがあって、そこで足立区でどんなことをやっているのかを話す機会がありました。これは私としては非常にありがたいことで、少しは恩返しができたのではないかという思いで話をしたのですが、避難所はどうあるべきか、備蓄の話や避難時の非常持ち出し袋はどうしたらいいのかなどについても話すことができました。一番ありがたいと思ったのは、大災害に遭遇した際には、公務員は何もできないということを事前に住民の方に率直に申し上げる機会ができたということです。それが、私たちにとっても阪神淡路大震災の一番の教訓であり、そこからスタートできたと思っています。

複合災害である東日本大震災の教訓から

運の悪いことに、東日本大震災が発生した2011年に、私は危機管理室長という仕事をしていました。この震災が阪神淡路大震災と違うのは、いろいろな複合的な要素が絡まった災害だったということです。足立区も地震でかなり揺れました。お風呂屋さんの煙突が倒れてしまったという事象もありましたが、倒れそうな煙突があるというところもあって、そうなると避難命令を出して、それを撤去する仕事なども発生してきます。もう一つ、やはり大きかったのは、福島などの被災地域の方々が、域外避難と呼んでいますが、足立区に避難してきたということがありました。当時はこのようなことは全然考えてなかったので、準備ができていませんでした。最初に茨城から来られた方がいて、公園で野宿というわけにもいかず、婦人会館にはお風呂もあるので、とりあえずそこに入っていただいてから避難所を用意することになりました。

その他にも、当時は想像を絶する多くの人々が駅に溢れて、帰宅困難者がたくさん発生しました。足立区の北千住駅は、ちょうど荒川の手前で、鉄橋が渡れるかどうかが分からないために、電車が全てストップして大勢の人が滞留してしまいました。当時も荒川河川敷に避難させるという計画はあったのですが、あの日は寒くて小雪混じりでしたので、急きょ、私は、千住新橋という橋を渡って逃げていただければ、学校がいくつもあるので、そこに避難していただくという、ルールにはないことを実はやってしまいました。これはやはり「臨機応変にその時に考えるべき」という震災の教訓だと私は思います。ルールは守るだけでは何にもなりません。ルールを使って市民を守るのが私の仕事だとその時も思ったので、ルールを変えて対応しましたが、それこそが仕事だというふうに今でも私は思っています。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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