1. ホーム
  2. 東急沿線の地域情報
  3. 安心・安全情報
  4. 防災インタビュー
  5. 災害に強い社会をつくる
  6. 百聞は一見にしかず ~被災地から学ぶ 防災の知恵~
  1. ホーム
  2. 東急沿線の地域情報
  3. 安心・安全情報

防災インタビューVol.196

百聞は一見にしかず ~被災地から学ぶ 防災の知恵~

放送月:2022年1月
公開月:2022年4月

定野 司 氏

文教大学 客員教授

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

阪神淡路大震災を経験して

阪神淡路大震災の時に、私は防災課長になって2年目でしたが、そんなに若くして防災や災害の課長をやるということはそれまでの足立区ではありませんでした。それまでは防災課長の仕事は、防災の日、9月1日の訓練をやれば終わりでしたので、例えば「備蓄として、こんなことをやりたい」と要求しても、「そんないつ使うか分からないものに金は掛けられない」と切られていました。防災というのはつまらない仕事だと思っていたところでしたが、1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こりました。役所人生というよりも、私そのもの人生が変わったというのがあの阪神淡路大震災でした。

発災から2日目の夜に三宮に行きました。その時も周りからは「なんだお前、600キロも先に行って何してくるんだ」と言われました。確かにそうです。しかしながら、この時の経験があったおかげで、足立区や他の自治体の震災対策が進んだのではないかと私は思っています。「百聞は一見にしかず」と言いますけれど、まず神戸を目指して高速道路に乗る際にも、今だったら警察に書類をもらっていくとフリーパスで通れるのですが、当時はそういうルールがなかったので、私の名刺1枚を高速の入口で出して、「これから神戸に行くのです」と言ったら、「どうぞ行ってらっしゃい」と係の方が言ってくれました。状況を理解して、応援してくれたので、神戸を目指して走り始めたのですが、日本平に差し掛かった辺りで事故が発生していて、立ち往生してしまいました。私たちは防災服という制服を着ていたので、東名高速の路上に職員を下ろして交通整理をして、そこを通り抜けて現地に行くということをやりました。当時、神戸に行く手前の所はほぼ停電して真っ暗でしたが、われわれは車の上に赤色灯がついた緊急車を持っていたので、私たちの後ろを横浜の医療の団体の方たちが一緒に着いて来ていました。 

行った先の三宮の葺合という市営住宅では、みんなが集会室に避難していました。市営住宅自体は鉄筋のしっかりした建物ですので、家に居た方が安全ではないかと思ったのですが、住民の方に案内されて行ってみると非常時に使うはずの非常階段が建物から外れて地面に落ちていました。これでは、やはりその建物に居たいとは思わないわけで、集会所に皆さん避難していた理由が分かりました。避難所には、トイレのための青い大きなポリバケツがたくさん並んでいました。災害の時というのは、食べ物や飲み物のことが非常に心配になりますが、実際にはその逆で、飲んだり食べたりしているからこそ、出すことも考えないといけないわけで、トイレの対策がすごく大切だということを実感して、持ち帰ってきたというのが阪神淡路大震災の2日目の夜の話です。

現地での経験を生かした防災対策

阪神淡路大震災の現場から帰ってきて、まずトイレの対策が重要だということで、各小中学校避難所にトイレを作る計画をしましたが、当時1億6千万掛かるということでした。上司からは「穴を掘ってすればいいじゃないか」と言われたのですが、女性や子どもたちにとってはそんなこと無理で、我慢することで病気になってしまい、医師も足りないという当時の状況を神戸の現場で見てきていますから、それをきちんと説明できるわけです。それで、予算を作ることができて、その夏休みは大変でしたけれど、全校に防災用のトイレを設置しました。これはアースイントイレというものですが、普段は地中に埋まっていて、子どもたちが上で遊べるのですが、いざとなったらそれを掘り起こして組み立てるとトイレになるもので、これを足立区の全校に配置しました。

もう一つは、避難所の運営についてです。実際に避難所に最初に避難するのは、お年寄りでも、けが人でもありませんし、職員が行って準備をするわけでもありません。誰が避難所に最初に行くのかと言ったら、まず元気な人が先に避難してくるわけです。それでは、「先に避難した方々に避難所を運営していただいたらいいのではないか」ということを提案して、避難所運営会議というのを全校、全避難所に作りました。地域の方に協力していただかなければいけないので、とても骨の折れる仕事でしたけれど、皆さん協力していただいて全校にできました。避難所運営会議において、例えば無線の装置だとか、水や食べ物、毛布などの備蓄品を先に学校に置いておいた方がいいのではないかということになりました。これは今だったら当たり前のことですが、当時はそういうものを学校に置いてはいけないというルールがありました。学校に備蓄品を入れること自体は、お金は掛からず、トラックさえあれば備蓄倉庫にあるものを入れればいいので、それを真っ先に進めたら、新聞が「役所って普段仕事が遅いのによく早くやった」と褒めてくださいました。そうしたら翌日、何省とは言えませんが、学校を監督する省庁からクレームの電話が入り、「学校を目的外の倉庫代わりに使うのは不届きである」と言われました。私たち公務員の仕事というのは、法律とかルールを守るだけでなく、法律を使って市民住民を守ることだと私は思っています。そうやってこれまでも仕事をしてきました。その時の経験というのは今でも生きていますし、その後、2、3カ月たってから、その監督省庁から「空いていたら使ってもいいですよ」という通知文を頂くことができました。それ以降、全国的に「避難所になっている学校に備蓄は必要だ」ということが広まったわけです。

この他にも、実際、阪神淡路大震災以降変わったことはたくさんあります。例えば自助、共助、公助という考え方についても、その役割は随分変わったと思います。それまでの防災計画上では、避難所にはまず職員が行って「避難所」という看板を作って開設することになっていました。選挙ではないのだから看板を作って「どうぞ」ということができるわけはないのに、それが平気で書いてあったわけです。それがガラッと変わりました。できることとできないことをちゃんと峻別することができました。特に足立区の防災計画は、それまではできることだけを書いてあったのですが、その当時「シナリオ型の防災計画」に作り直しました。「シナリオ型」というのは、災害を時系列で追っていって、どこまでできるのかということを書いていくもので、今の防災計画はほとんどそういうふうになっています。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

会社概要 | 個人情報保護方針