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防災インタビューVol.19

人々の暮らしと命を守る「土木」

放送月:2007年5月
公開月:2008年1月

後藤 洋三 氏

元防災科学研究所川崎ラボラトリー所長、

土木構造物の耐震設計の専門家として

私は24歳の時に大林組に入社して技術研究所に勤務し、34年間勤めて6年前に退社しました。会社での専門的な内容としては、土木構造物の耐震設計を研究してまいりました。大林組を退職してからは、西日本工業大学の先生を1年半やりましたが、その後、国の新しい防災関係のプロジェクトの担当をすることになり、防災技術研究所の川崎ラボラトリーの所長をやらせていただきました。そのプロジェクトも今年の3月に終わりまして、現在は富士常葉大学附属環境防災研究所の特任研究員をしております。

私が勤務していた大林組は建物を建てる会社なので、「土木の専門家として何をやってきたのか」という疑問を抱かれる方も多いと思います。実際は、日本の中でも建設業関係で土木の分野というのは、非常に大事な分野で、例えば新幹線の橋梁、明石の吊り橋、東京湾の横断道路などもそうですし、もっと身近な道路や下水や水道というものを造る業種でもあります。その中で、私は民間会社の立場から土木施設の耐震設計を、どういうふうにしたらいいかということをテーマに研究していました。

民間の土木分野の防災研究のパイオニア

自分で言うのも何ですが、私は民間の土木分野の地震防災の研究者としては、恐らくパイオニアになります。24歳で就職してから、50歳ぐらいの時に、いわゆるバブル経済が崩壊するまで約25年間、土木分野の防災研究に携わってきました。

当時は今とはちょっと違って、「建設は正義なり」という時代でした。スーパーゼネコンでいろいろな構造物の耐震設計に携わらせていただき、私は本当に幸運だったと思っています。例えば明石の吊り橋の耐震設計をどういうふうに考えたらいいかとか、東京湾横断道路のような非常に地盤の悪い所に、地震に強いトンネルをどうやって造ったらいいのかとか。あるいはインドネシアで液化した天然ガスをタンカーで持って来て、東京湾や大阪湾の中にあるタンクに貯蔵して、それを皆さんが使っていますが、このような「地下タンクや地上タンクはどのように耐震設計したらいいか」というような事を研究してきました。ちょうどコンピューターが非常に発達して、いろいろな計算ができるようになった時期ですし、いろいろな実験もできるようになりましたので、いわゆる研究の面でも右肩上がり、恵まれた時を過ごすことができたと思っています。

三宮駅北口

もちろん土木の分野は建築とは違って、主流はやはり公共事業ですから、国土交通省などの省庁の方が非常に大きな権限を持っています。また大学の先生方がいろいろアドバイスをしながら、技術的な問題も進めていくという世界で、その中にあって民間会社というのは、いわゆる注文を受けてやるだけの立場です。そういう立場の会社の中で、耐震設計に直接携わるようなことをやるというのは珍しいですが、私は、そういうことを最初に始めたパイオニアです。

阪神淡路大震災の現場へ

入社以来、私は恵まれた環境で耐震設計のことをやってきましたが、50歳を過ぎて阪神淡路大震災に遭遇したことが、私の技術者人生、研究者人生の大きな節目になりました。この地震で、信じられないくらいのたくさんの方が亡くなられたことは大変ショックでしたが、土木の施設、橋とか港湾などが壊れてしまったことも、非常にショックな思いでした。

地震があった平成7年1月17日の早朝、まだ寝ていたところに電話がかかってきました。私は間違い電話かと思って、寝床から出て行かなかったのですが、実はそれが「地震が起きて大変だ」という知らせだったのです。私は何も知らずに、そのまま会社に行きました。朝9時すぎに職場に着くと、テレビの前で皆、大変な騒ぎでした。「橋が落ちている」「家が軒並み倒れている」「これは死者がたくさん出ている」とか言っているわけです。驚きました。

元町と三宮の間の商店街

大林組という会社は関西が地盤の会社で、私の職場は東京にありましたが、当然、神戸の辺りにも大林組が造ったものがいっぱいあります。建設会社としては、もちろん従業員の安全が第一ですが、その次は自分たちが造ってきた、いわゆるお客さんに提供してきたものがどうなったか、これが大切な課題になります。私は耐震関係の研究をやっていましたので、現地に行って、いろいろ調べて、必要な処置をしなければいけないということになりました。

次の日の朝、大阪へたちましたが、たまたま月曜日でしたので、その週の初めに社内に回覧するミニレポートを書く順番が回ってきていました。それで「数百人の人が亡くなるような地震が、耐震設計が進んだ日本で起きたら大変なことだ」と書いて出掛けたのですが、次の日に大阪に着いて、ちょっとテレビをつけたら、死者数千人になると言ってるではないですか。慌てて私は研究所に電話して「原稿に数百と書いたのを、数千に直しておいてくれ」と連絡するような状況でした。

その日は、とにかく日が暮れるまで被災の現場を見ようとしましたが、当然一番ひどい所までは行けませんでした。西宮の方から神戸の方に向かって、国道の下を歩いていったのですが、逆方向に海外旅行をするようなカバンをゴロゴロ引いた人が、列を作ってやってくるのです。もう神戸に住めないから、荷物を持って避難しようとしている人たちが大勢いるのだと、気が付きました。

※今回のインタビュー記事は、東急電鉄の協力のもと、「FM salus」が過去に放送した『東急建設 presents 「サロン・ド・防災」』の内容を、一部改定して掲載しています。