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防災インタビューVol.35

伝えたい~神戸から東京に~

放送月:2008年10月
公開月:2009年5月

溝上 晶子 氏

早稲田大学教育学部3年、早稲田レスキューチーム(わせQ)副代表

プロフィール

瓦礫から拾い集めたタイル

私は7歳の時に阪神淡路大震災に遭いまして、それをきっかけに、防災や阪神淡路大震災を伝える活動を高校時代から行ってきました。現在は大学で早稲田レスキューという早稲田災害対策学生チームに所属し、神戸では1.17ユースプロジェクトというものを作り、阪神淡路大震災の経験を伝えるためのラジオドラマを制作しています。

早稲田レスキューは早稲田のまち、早稲田大学、新宿区が連携をして、災害が起こったときに早稲田のまちで学生が、救助活動やボランティアができるようにと設立されたチームです。設立が2007年の11月とまだ若いチームなので、現在は活動の基盤を固めている状態です。早稲田の街の人とお祭りをしたり、小学生と一緒に行う「防災キャンプ」など、いろいろなことを街や大学とともに行っています。

神戸からほかの場所に、震災の経験を伝え、生かすことが私の使命だと思っています。まだまだ、学ぶことがたくさんありますが、これから先も防災に携わって行ければと考えております。

阪神淡路大震災の経験を通して

阪神淡路大震災が起こった時には私は7歳で、小学校1年生でした。私たちの年代は震災を覚えている最後の世代と言われています。私は、地震が起こった時のことを非常によく覚えています。

地震が起こった5時46分には、私は起きていました。あの日はとても寒くて、テレビのチャンネルを探すのを断念して布団に潜り込んでいた時に、ゴーッという地鳴りが聞こえて「何だろう」と思った瞬間、ドーンと体が跳ねました。縦にまずドーンって突き上げて、体が布団に着いてから横揺れが始まりました。横揺れも、小さなものからどんどん、どんどん大きくなっていきました。その時ちょうど私の家は改装をした後で、食器棚が私が寝ている横にありました。隣に寝ていた母がかばってくれました。食器棚は倒れてはこなかったのですが、毛布にくるまれた上に食器が落ちてきました。7歳なので、その食器に埋まってしまって、けがはなかったのですが、地震が終わった後、動けなかったのを覚えています。家族全員ぼうぜんとしてしまっていて、父が「大丈夫か」というまで10秒ぐらい何も言えませんでした。3分ぐらい揺れていたのではないかと思えるくらい、長い時間揺れているように思えました。私は、それまで地震というものにほとんど遭ったことがなく、何がなんだか分からない状況でした。私の住んでいた須磨区では震度7でした。ちょうど淡路島が海の向こうに見える場所で、線路の北と南で被害の明暗が分かれた地域です。私の地区は、ちょうど北側でしたので、私の家はとても古い木造の家でしたが、家自体は建っていました。その家が建っているので、私も家族も「そんなに被害はないだろう」と思ってはいました。それでも、実際には電気はつかないし、水は出ない、ガスはつかないという状態でした。その時は「まあ、そのうちつくだろう」くらいに思っていましたが、家の外に出ると、唖然。家は建っていたのですが、瓦が全部落ちてしまって屋根がない状態でした。空は土ぼこりで黄色くて、灰が降ってきて、どこかで火事が起こっているのだと分かりました。

震災後、線路の南側・隣町の様子

しかし、その時私は小学校1年生だったので、電気がつかないことも楽しいし、ラジオで情報を聴くことも新鮮で楽しく思っていました。父も兄も会社や学校にも行かず、自分も小学校に行かなくてよくて、ずっと家族がそばにいてくれるので、とても嬉しかったし、水が出ないので井戸に水をくみに行ったりするのですが、それも楽しく感じました。どこかに移動するにしても、全部電車も止まってしまっているので、どこに行くにも歩いて行くしかなくて、線路が一番安全だということで線路を歩きました。線路を歩くなんて多分二度とないだろうと思いますが、当時の私には、とても面白かったのです。火事の現場やがれきの山や逃げている人たちなど、いろいろなものを見てはいたのですが、自分の家族がいて、家があるということで安心してしまっていて、私にとっては、このような非日常の生活がとても楽しい出来事でした。

しかし、しばらくして、銭湯をやっていた祖母の家に「全壊」と書いた赤い紙が貼られているのを見ました。赤い紙が貼られるとショベルカーでどんどんつぶされて、がれきは一掃されてしまいます。それは子どもながらに知っていて、その紙が貼られたときには「壊されてしまうんだ」と思って、すごくショックを受けました。とても大きな銭湯だったのですが、壊されてがれきになっていく家を見ていると、2時間ぐらいですべてなくなってしまったのが本当にショックでした。銭湯には、赤や青などのいろいろなタイルがあったのですが、そのタイルだけががれきの中にちらほら残っていて、きれいなタイルを一人で拾い集めて、缶に残したのを覚えています。

それが私にとっての震災です。私には家もあったし、家族が亡くなったわけでもありません。しかし「家がなくなってしまったり、家族が亡くなったわけではなくても、地震に遭った人すべてに一つ一つ震災の物語があるんだよ」と教わりました。その時に「私にとっての震災とは何だろう」と考えると、やはりそこにたどり着きました。「そういう思いをこれ以上はしたくない」と思ったことが、防災に関わろうと決断したきっかけになっています。

よく「地震に遭って、人生変わったんじゃないか?」と言われますが、本当にそうだと思います。あの地震に遭っていなければ、こんな考え方もしなかっただろうし、防災なんて見向きもしなかったかもしれないと思っています。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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