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防災インタビューVol.38

命を左右する災害時避難

放送月:2009年1月
公開月:2009年8月

片田 敏孝 氏

群馬大学工学部教授

HP:http://dsel.ce.gunma-u.ac.jp/

災害情報をうまく利用して自分を守る

災害情報といいますと、避難勧告、避難指示というような避難の情報、それから大雨洪水警報などのような気象の情報、最近は地震に対しても緊急地震速報など、非常に高度な情報が出るようになってきました。こういったものをうまく使えば、自分の命を守るということに非常に大きく役立てることができる時代になってきたわけです。ところが、そこには大きな落とし穴もあると私は思っています。例えば災害情報がどんどん高度化し、精緻化していくと何が起こるかというと、情報に大きく依存していくという構造がごく自然と出てきます。

今まで地震に関する情報というのは、揺れた後しか出なかったわけです。ところが緊急地震速報のように、ある程度の震源地からの距離があれば、地震が起こった後、揺れる前に情報が届くということで、それを生かせば、ある程度安全を確保することができるというように改善されたのですが、「緊急地震速報ができたから、もう地震の対応は万全」と情報に委ねてしまう気持ちが出てきてしまうわけです。ところが情報というのが常に完全であればいいのですが、例えば緊急地震速報なども震源地の近くでは間に合わないとか、建物の1階と高層階では大きく揺れが違うとか、どうやっても情報に限度があるわけです。であるにもかかわらず、どんどん情報が高度化されていく中で、「情報があるから大丈夫」と思う気持ちがどんどん市民の皆さんに出てきています。

今の緊急地震速報の話もそうですが、情報に委ねると「緊急地震速報が出たときに、どのように身の安全を守ればよいのか」ということを自発的に考えずに、その対処方法まで教えてくださいというように、情報を出す主体にどんどん聞いていく。主体的に物を考えるのではなくて、受け身の自助みたいな気持ちがどんどん高まっていきます。

この緊急地震速報を出しているのは、日本ぐらいです。これだけの技術でこれだけの観測網を持って、これだけ高度な情報が出始めています。しかし、これに対して、すぐに震源地の近くでは使えなかったというような批判が出たり、建物の1階と10階、これは揺れが大きく違うから役に立たないんだ、というような批判が先行して出てきます。ちょっと言葉がきついのですが、だったら使わなければいいと思います。もしこれが内発的な、つまり自分の心の中から自分の自助意識というものがしっかりわいて出てくるようなもので、自分の命だから自分で守りたいという思いから出たものならば、「震源地の近くでは使えないというような制約があったり、1階と10階では揺れが違うかもしれないけれど、その情報を下さい」というような姿勢になるはずです。この防災の意識がとても大事だと思います。情報がどんどん高度化していく中で、もっと高度な情報が欲しい、もっと制約をなくしてほしい、というようにどんどん要求だけ高めていく防災というのは、やはりどこかで自分の安全というのを他人に委ねている意識があるからではないだろうかと思います。ですので、防災情報にただ依存するのではなく、内発的な防災という、自分の心の内から出てくる、自分の命を守りたいという意識の防災、それがとても重要であると思っています。

防災の現場で

防災に対しては、自分の心の中から出てくる防災の意識がとても大事だとお話ししましたが、実際に防災の現場というものに触れておりますと、いろいろな問題が見え隠れしてきます。もともと防災というのは自分の身は自分で守る、そして災害の危険がある地域に住まわれる場合は、その災いをやり過ごす知恵を持ちながら生きるというような、とても人間くさい側面の問題です。こういった問題を進めていくときは、単に合理的に避難することがいかに重要か、というようなことをとうとうと述べていくような防災というのを進めていても、うまくいかないことが非常に多く出てきます。

私も大変思い悩んだことがあります。群馬県の山の中で、一人暮らしのおばあちゃんがおりまして、避難勧告が出たけれども逃げられませんでした。「おばあちゃん、どうして逃げなかったの?」と話し掛けますと、「もう私はこの家が流されるんだったら、私も一緒に流れたい」なんてことをおっしゃるのです。このような現場に立ったとき、こういったおばあちゃんの気持ちと、この防災というものをどう考えればいいのだろうか、というような問題にも出くわします。おばあちゃんにすれば「この家が流れるんだったら、若い時におじいちゃんと苦労して建てた家だし、この家が流れてしまうんだったら私も流れてしまいたい。自分一人逃げて残って、家が流れてしまったら、その後の人生がつらすぎる」とおっしゃるのです。こんなおばあちゃんの気持ちを考えると「おばあちゃん、そうだよね」と思わず言ってしまいそうになるのですが、それでは防災としてはよくないわけです。そのような時に、ちょっとこのおばあちゃんの気持ちに入っていって、こんな会話をしました。「おばあちゃんは流れて死ぬというのもいいのかもしれないんだけれど、東京に出ている自慢の一人息子が、おばあちゃんが土の中に埋もれて死んだり、流されて死んでしまったら、おばあちゃんのことを一生重荷として背負って、心に残ってしまうんだよ。おばあちゃんの命はおばあちゃん一人の命じゃないんだし、やっぱりちゃんと畳の上で死のうよ」なんて話をすると、「そうだな、やっぱり逃げるよ」というような話になっていくわけです。

本当に防災というのは、最後は自分自身の命という問題に対して、どれだけ私たちが「逃げるということ」「自分の命を大事にするということ」を考えながら、その人の心に寄り添ってあげられるかということだと思います。とかく自分の命の問題というのは、「まあ、大丈夫だ」というふうに横に置いてしまいがちなのですが、一人一人の命の問題というところに、こちらから深い理解を示してお話をしっかりしていく中で、「自分一人の命ではないのだから、自分の命を大事にしていくこと」を説き、その中で「自分の命を守りたい」という気持ちをつくっていく、そんなことも今、防災としては必要なのではないかと思っております。

また、こういう一人一人の命の問題だけではなく、災害というのには地域の特徴があります。例えば津波の常襲地域であれば、何回も何回もつらい過去を持っている地域なのです。ところが人間は時間の経過とともに、こういうつらかった思い出を忘れていくものです。阪神大震災も、もうだいぶ風化が進んでいるというふうにも言われます。確かにつらいと思う気持ちをずっと引きずって生きることもどうかな、というふうにも思いますので、ある程度、風化というのも人間くさい心の側面かもしれません。しかし津波や洪水でやられる所は、いつも決まっています。それならば、やはり過去のつらい思いをその次の世代に引き継ぎ、そこに住むからには、津波の警報が出たときには逃げるということを繰り返しながらそこに生きていくということは、その地域に住む条件だと思います。

つまり、こういう災いをやり過ごす地域の知恵、この災害文化というようなものをどう定着し、そこに住む条件として、どうやって次世代に引き継いでいくのか。また個人個人のレベルで見るならば、先ほどのおばあちゃんの話のような、一人一人の命に寄り添いながら進める防災の中で、初めて地域の防災というのはできるのではないかと思います。とても難しい問題ですが、このような観点でこれまでも取り組んできましたし、これからも取り組んでいきたいというふうに思っています。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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