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防災インタビューVol.88

防災通信分野の未来 ~災害の数値化から防災教育への活用まで~

放送月:2013年3月
公開月:2013年8月

廣井 慧 氏

慶応大学大学院

プロフィール

慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究課の博士課程に在籍している廣井 慧です。その他にも東京都環境科学研究所で非常勤研究員をしています。研究分野は、災害時の通信と防災情報システムです。ゲリラ豪雨と言われるような短時間強雨のメカニズムを解明したり、その発生の情報伝達を行うことや、都立高校の生徒に防災教育を行っています。災害が発生したときに自分がどのような状況にあるか、この先どうなるかという情報をシステムや通信網を使って、どうやっていろいろな人々に伝えるかということを目的に研究をしています。

私が防災関連の研究をするに当たっては、いろいろな経緯がありました。実は私の父が災害情報学の研究をしており、小さい頃から父が家で災害の話をしておりましたので、災害の時にどうやって情報で人を救うかということを常に考えるような状況にはありましたが、高校生の時には災害を自分がやるとは考えていませんでした。父から「人の役に立つような仕事をしてみたらどうか」とは言われていたのですが、いろいろころころやりたい事が変わってしまう性格なので、医者をやってみたいとか数学をやってみたいとか、いろいろなことに興味を持っていました。大学に進学するときにどの方面に進むかを考え、父に以前から言われていた「人の役に立つ仕事」ということで、数学が好きだったのでその分野で何ができるかと考えて、東北大学の工学部に進学しました。そこで災害とは全く関係ないことを研究したり、勉強したりしていました。大学の4年生になった頃に父が病気になり、残り3年、5年生きられるかどうかというような状況になってしまいました。私は東京出身ですが、大学の時は仙台にいましたので、残りの父の人生に一緒にいて親孝行をしようと思い、大学院に進学を考えていたのですが、いったん東京に戻って来て就職をすることにしました。ただその頃は就職活動がほとんど終わっていた時期で、どうしようかと思って考えていたところに、また父が「せっかく工学部に行ったので、通信の分野から災害を考えてみてはどうか」というアドバイスをくれました。そこで、まだ就職を受け入れていたNTT東日本に就職をしまして、そこから災害の時の通信の勉強や仕事、研究をすることになりました。

「災害時の通信インフラ」

「災害がやりたい」ということでNTT東日本に入り、当時の災害対策室室長に、とてもお世話になりました。「災害時の通信インフラとはこういうものだ」というのを基礎から丁寧に、通信設備的なこと、通信の分野から災害に関わる者としてどういう心構えで仕事を行ったらいいかなどを教えていただきました。NTT東日本の電話の設備というのは、交換機、電話線、無線などたくさんの設備があり、その両端にお客さまがいて、たくさんの設備を使っています。そのどこか一部分が切れても使えなくなってしまいますが、災害の時はそのどこか一部分が切れてしまう可能性がとても高くなります。そこで災害対策室室長から、全ての設備を覚えて、どこが駄目になっても対応できるような力を付けるように、それには通信の設備全体を理解することが必要だと言われました。そして、災害時の電話網の弱いところと強いところ、お客さまが実際に災害の時にどういうニーズがあるのかを学ぶ環境を頂きました。  簡単に言ってしまうと、電話というのは2本の線でつながっています。そこにはたくさんの設備があるのですが、実際は0.4ミリ、0.5ミリぐらいの細い線が2本あって、その両端に電話を使う人がいて、という構成になっています。地震の時はその細い線が切れてしまうこともありますし、水害の時など、停電になってしまうと通信をすることができなくなってしまう、とても繊細な設備になっています。ただその繊細な設備を使って通信しているのは、とても大きな重要なコミュニケーションだということを教えられました。そして、NTT東日本に入ってから2年間、設備について電話線、交換機など、いろいろな所をぐるぐる回らせていただいて、土木や建築などの結構ガテン系なところも経験させていただいて、通信インフラとはどのようなものかを勉強させていただく中で、皆さんすごくプライドを持って電話網を守っていることを知りました。設備を守るためには、災害時だけでなく平常時も、自分たちは何をしなければならないのかという心構えのようなものを一番教えていただいたと思っています。

災害と電話

大学を卒業してから災害と通信をやりたいということでNTT東日本に入り、入社3年目の時に電話の輻輳制御という業務に就きました。電話の輻輳制御というのは、災害対策のまさに要になるような仕事です。父が災害情報学をやっておりまして、父の勧めで災害の仕事をすることになったので、やっと入社3年目にして自分のやりたかった事ができると、とても楽しみにしていました。ただ、電話の輻輳制御をするという業務の部署に就いた2週間後ぐらいでしたか、父がちょうど亡くなってしまいまして、最期に父に言われたことが「もっとたくさんの教えたい事があったけれど、教えられなくてごめんね」ということでした。あともう一つ手紙といいますか遺書といいますか、書かれていたことがありまして、それは「防災の通信分野にはまだまだやらなければいけないことがあるので、よろしく」ということでした。私は、その時入社3年目で、まだ「通信とは何だ」という勉強をしている最中でしたので、やらなければならないことがあると言われても、具体的に何なのかは分かりませんでした。しかし、結局それを聞く前に父が亡くなってしまったので、自分で考えなければいけなくなりましたが、何をやればいいのか、そこから悩むことになりました。

先ほど電話の輻輳制御と言いましたが、「輻輳」というのは聞き慣れない言葉だと思います。電話というのは交換機を通してつながっていますが、交換機も機械ですので、一度に電話できる数に制限があります。たくさんの人が一斉に電話をかけてしまうと、機械がたくさん処理をしなければならなくなって、処理できないという悲鳴を上げてしまいます。そうならないように、うまくコントロールしていくのが輻輳制御という仕事になります。それは、人がシステムを使ってやることですが、地震などの大きな災害が起きると、心配して安否確認をするために、地震の被災地にいろいろな人が一度に電話をかけます。そうすると電話が集中して、かかりにくくなる現象が起きます。その際に電話がつながりにくくなるのを防ぎ、1人でも多くの人たちに電話を使ってもらうためにオペレーションをするという部署に、入社3年目で配属されました。災害にとても関係のある部署で、非常にやりがいを感じてはいたのですが、父が亡くなり悲しいやらどうしていいやらで、ぼぉーっとしながら仕事をしていました。父が亡くなって3カ月後ぐらいの平成18年に7月豪雨というのが起きました。それは九州や北陸地方に大雨が降って、亡くなった方もいるような豪雨でしたが、私はその部署にいて、雨のあった九州と北陸で皆、一生懸命電話をかけあっていて、電話が通じなくなっているのが分かりました。それを見ながら、できるだけのことはやっているのですが、それでも通じないものがあり、何もできないと思って、見ているだけというようなことがありました。

その災害で二つ学んだことがありまして、一つが災害時のオペレーションについてです。緊急時のオペレーションというのは、すごく訓練した人でも、とても勇気がいることです。それは、電話のような業務をする人でも、役所の非難情報を出すような方でも、皆さん同じだと思いますが、うまくいって当たり前で、人が亡くなったら何でうまくいかなかったのかと振り返り、反省をしなければならないような立場にいます。それは当たり前と言えば当たり前ですが、大きなプレッシャーの中で皆さんオペレーションをしているのを学びました。何が正しかったかは後にならないと分からないことですが、そういう緊急の状況の中でいろいろな情報を受けて、判断しながらオペレーションをしていくのは非常に難しいことです。だからといって簡単にシステムを使って人が考えるところを減らしていくと、予想外のことが起きたときに、なかなか自分で考えることが苦手になるといいますか、対応がやりにくくなってしまうということを感じました。

もう一つ学んだことは、被災地内通信をどうやって守るかということです。電話がつながらないというのもいろいろありまして、東京で地震が起きたときに、北海道の人が東京に電話をかけてつながらないというのもありますし、東京の人同士、実際に被害に遭っている人同士がつながらないという2種類があります。私の守りたいと思ったのが、地震や水害に遭った被災地の中での通信を、どうやって守るかということです。平成18年の7月豪雨の時は、つなごうとしてもつなげられない、九州や北陸の被災地内の人と人とがつなげられませんでした。その電話の中にはもちろん「大丈夫か」という安否確認もありますし、もしかしたら防災機関でオペレーションで使う電話もあったかもしれません。また、その現場にいてどのような状況か分からないから、周りの人に「どうしよう」「今どうなっているの」と聞くような電話もあったかもしれないし、中には助けを求めるような電話もあったかもしれません。皆その時の最大限の力で最善のことをしようとしているのですが、どうしてもうまくいかないという状況がありました。その時に、自分にできることは何だろうと考え、それと併せて父が言っていた通信分野でやらなければならないことは何だろうというのを、それから2年から3年かけて被災地の調査、システムの調査を通して、じっくりと考えることになりました。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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