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防災インタビューVol.179

地域づくりからの防災減災

放送月:2020年8月
公開月:2020年12月

澤田 雅浩 氏

兵庫県立大学大学院
減災復興政策研究科 准教授

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

新潟中越地震からの復興

その地域が抱えている課題が、自然災害で被害の形となって立ち現われて来るということについてお話ししましたが、今度は私が新潟に住んでいた2004年に起こった新潟中越地震ではどういう状況だったのかについて、少しご紹介をしたいと思います。

日本は全体として2006年から人口減少社会を迎えたと言われていますが、2004年に起こった新潟中越地震の被災地では、その全国的な人口減少よりも随分早い時期から人口減少が進んでいました。特に新潟中越地震で震度7を記録し、非常に強い揺れを経験することになったエリアは、中山間地域と言われ、高度経済成長時代の頃からすでに人口減少、担い手不足、過疎化が進んでいて、それが社会問題としてずっと続いていたエリアでした。21世紀になった今、災害からの復旧復興を考えるときに、人口減少している地域で壊れたものを災害が起こる前に戻すということだけが復旧復興の目標でいいのだろうかということが問われています。

阪神淡路大震災では、壊れたものを元に戻していけば、その後また人口が増えたり、地域社会が経済的にも発展をするという前提で復旧復興を進めることができたのですが、新潟の過疎が進みつつあるまちでは、元通りの復旧復興を目指しても、だんだんと小さくなっていく可能性もあります。その場合に、皆さんの安全安心を今後も確保していくような取り組みをどのようにしていけば進めることができるのかということが非常に重要なキーワードになり、その後のいろいろなプロセスを支えることになってきました。人口が減っている社会の中で災害が起こると、そのままでは災害後に人口の増加に転じるような、よく復興で描くような素晴らしい社会というのは訪れないということが、実はこの2004年の中越地震の復興プロセスでは分かりました。復旧復興を目指しても、人口が減っているトレンドが災害で一気に逆転するということはなくて、やはりその傾向がより一層強くなります。「地域をどういうふうに立て直していくか」という少し考え方の視点を変えた取り組みが必要になるし、そのチャレンジが2004年あたりから日本国内の被災地の中でも行われるようになってきたと言えるかと思います。

それは簡単に言うと、評価というのは分かりやすい数字で計測されるケースが多いので、人間の数でその地域の社会を評価しないようにすれば随分違ったものが見えてくるということではないかと思います。通常だと、人の数やGDP、どれぐらいの建物が復旧したのかというような数字で描かれがちなのですが、それは人々の活動のベースでしかありません。災害から立ち上がったまちや村の中で、どういうふうにみんなが行動しているか、交流しているかに着目をすると、その地域社会がどういうふうに立ち直ってきたか、次の災害に備えるような社会をつくることができたかということが見えてくるようになってくることが何となく分かってきました。

地域の持つ力で災害を乗り越える

1995年の阪神淡路大震災では、いろいろな構造物が壊れ、インフラストラクチャー、ライフラインが断絶されたこともあり、それらをどのように強くしていくかということが復旧復興の中で大変重要視されてきました。それとともに、災害ボランティアの存在が出てきたり、人々が行政と一緒になって話を進めていく「まちづくり協議会」の重要性が認識されました。2004年の新潟中越地震の時にもたくさんのものが壊れて同様に直していきましたが、それ以外のいろいろな人々の動きであるとか、活動に注目するようになってきました。社会学や心理学に関わる人たちも防災や災害自体に関心を持って、災害時の状況や復旧復興の中での状況を明らかにするような雰囲気が、災害や防災の分野の中でもとても強いインパクトを持つようになってきたと言えると思います。特に、新潟中越地震は、大雨が降った後に起こった地震で、中山間地域にかなりの地盤災害もあって、孤立状態になりました。地震が起こったのは。10月23日の土曜日の夕方でしたので、孤立をした状態であっという間に暗くなって、電気もありませんでしたから、山間の集落の人々はしばらくの間、孤立状態のまま生活をするという、今回の令和2年7月豪雨の時の熊本や大分の集落と似たような状況になっていました。ただそこで、孤立をしていたが故にお亡くなりになられていた人というのはいませんでした。この時には、地域の人たちが自分の家にある食糧を持ち寄ったり、お年寄りを励ましたり、助けたりしながら救助が来るのを待っていました。それまでは、「孤立しているというのはよくないからすぐに対策をするべきだ」ということが一般的でしたが、中越の場合は全然違う様相を呈しており、地域社会が持っている強さによって上手に乗り越えられていたことが分かってきました。それは実は復旧復興の中でもいろいろな所で見られました。例えば、仮設住宅や避難所などの避難生活の面においても同様のことが言えました。孤立して道路からのアクセスができなくなった地域から、ヘリコプターで少し離れた中核都市である、隣接する長岡市に避難してきた際のことです。家を離れて着の身着のまま避難生活を始めた当初は、てんでバラバラに高校などに避難していたのですが、同じ地域の人と一緒に避難生活を送る方が、このしんどい時期を乗り越えることができるということで、避難所の引っ越しをしました。そして、お隣同士、同じ集落の人たちが一緒に避難する中で2カ月間、全く自宅に帰らない状況でもなんとか協力しながら過ごすことができました。その後の仮設住宅も故郷を離れた場所に作られたわけですが、それも集落単位で入居できたり、被害の状況に応じて、帰るまでに時間がかかる人たちの仮設住宅には少し周りに畑を用意したりとか、少し利便性の高い住宅団地に入居をしてもらうというような配慮をしました。このことが、上手にコミュニティを支え、コミュニティの力を生かして、みんなで協力して、この危機的状況を乗り越える環境を作ったのではないかと思います。これは逆に言えば、地域がもともと持っていた力を信じて、それを乗り越える力にしたということだと思います。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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