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防災インタビューVol.179

地域づくりからの防災減災

放送月:2020年8月
公開月:2020年12月

澤田 雅浩 氏

兵庫県立大学大学院
減災復興政策研究科 准教授

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

災害復興がもたらす地域への影響

災害の被害というのはその地域社会がもともと抱えていた課題によって大きくなったり小さくなったりするものであり、その災害を乗り越える力をどのように作り、育んでいくかは、実は地域社会がもともと抱えていた力をどういうふうに上手に生かしていくかということに関係しているということをお話ししてきました。その一つの例として、新潟中越地震の被災地でのことについて、もう少しご紹介させていただきます。中越の中山間部の人々は、地震の影響で孤立し、その後もしばらく故郷を離れて暮らさなければなりませんでした。しかし、この地域は冬になると根雪が3メートルぐらいになる豪雪地で、雪を毎日処理しないと暮らしていけない土地であり、それまでも周りの人たちと上手に連携しながら暮らしていたことが、その後のさまざまな活動に生かされています。人口は少ないけれども今どきの言葉でいうとレジリエンスみたいなものが、地域社会の中に備わっていて、それを上手に尊重しながら復旧復興のプロセスに位置付けてきたということです。実際にこういったアプローチができたのは、阪神淡路大震災の教訓がある程度生かされているということが言えます。例えば阪神淡路大震災でも大量の仮設住宅が必要で、とにかく量を確保しなければいけなかったので、たくさん造って、お年を召された方、体の不自由な方に抽選で優先的に提供してきましたが、元住んでいた場所とは全然違う場所で、お隣には知らない人が住むということが、神戸の阪神淡路大震災の被災地の仮設住宅でたくさん起きました。それがその後の生活にいろいろな影響を及ぼし、中でも悪い方の影響がかなり多く出てしまいました。その教訓を引き継ぎ、新潟の被災地ではなるべく同じ地域の人たちが一緒に暮らせるように配慮していったことと、各地域社会がそれに応えられるような力を持っていたというところがあったのではないかと思います。

東日本大震災からの復興とまちの再生

東日本大震災では、被害の規模があまりに絶大でしたし、被災地のエリアも非常に広範囲でしたので、一口にどうだということは言えないにもかかわらず、意外と福島とそれ以外の地域という感じで捉えられてきた傾向があります。福島は特別だけれども、それ以外の沿岸の津波で被災したエリアは、結構モノトーンというか、モノカルチャー的に復旧復興が語られてきたような気がします。それぞれの地域で、災害前にどういう課題が存在していたかということに対してはあまり整理や情報共有がされないまま国が指導して、少しでも早く復旧復興をしていこうとしていたような気がします。

新潟の被災地のことを考えてみると、人口減少も決して悪い事ではないし、人口減少が進んでいる地域の中での今後の復旧復興の進め方というのは、もっといろいろな選択肢があったのではないかと思います。やはりそういう意味で言うと、被災地が周りの期待を一気に背負って、いろいろなものがその地域に投入されて、重たい荷物を背負った状況でがんじがらめになってしまって、地域の人たちがもともと持っていた生活力であるとか、いろいろな地域で暮らしていく知恵というものが発揮させられるような場がなく、そういったものがなかなか発揮しにくいような非常に大きな力が被災地の復興というものにかけられていったような気がします。

巨大災害が起こった際に、国がかなり力を入れて復興に関わってくれるということはとてもいいことだとは思います。やはりお金も掛かりますし、いろいろな人が力を寄せ合って復旧復興を進めていくべきだと思いますけれども、やはり地域社会がどういう状況なのかについて、もう少し解像度を高くしてというか、虫の目鳥の目で言えば虫の目に近いような形で地域を見ていくことがこれからの復旧復興にとても大切だと思われます。今までの話でも申し上げた通り、人口が減って小さくなっていく時というのは、上手な組み換えというか、棚卸しというか、そういうようなことが多分必要になってくるのだと思いますので、そういったことをやれるような素地をたくさん作っておいた方が本当は良かったのかもしれないと思っています。

東日本大震災も発生から10年がたって、いわゆる土木的に新しいものが建設されたり、土地を整理したり、防潮堤を作ったりということは完了しつつあります。住宅の高台移転もほぼ完了していると思います。ただ、新潟のことなどを考えると、地域社会が再生していくプロセスというのはまさにこれからでもあるわけです。新潟でも神戸でもそうですが、人々が地域のコミュニティの活性化などについてきちんと考えられるようになるのは、やはり住まいが安定してから本腰が入るという実感が私にはあります。そうなっていくと、東日本のように住まいというものがしっかりと安全な場所になるまでにこれだけの時間をかけてしまったことはどうだったかを問うことがまず必要で、それと同時に、やはりこれからも東日本大震災の被災地がまた元気になっていくための支援や具体的な活動は、まだまだ必要なのではないかと思います。

東日本大震災の被災地の方々がその後に起きた災害の被災地に対して、これまで受けてきたことに対する恩返しだということで、元気に活動されたりしていますが、新潟中越地震の被災地の状況から見ると、まだまだ東日本にもやらなければいけないこと、やった方がいいことはたくさんあって、そういう意味では、そういうステージはまだまだ終わってないのだということを主張しておきたいと思います。それは取りも直さず、外からの支援ではなく、中の人たちが、自分たちの魅力をもう一度再認識をして頑張ることで生まれてくる活力がたくさんあるのだと思っています。

新潟などの被災地でも、地域が抱えた課題が被害につながるというふうに言いましたけれど、逆にいうと地域で気付いていない自分たちの暮らしの魅力を、災害が起こったことで、外の人が指摘してくれることもとても多いので、そういったものを上手に生かしていくことがこれからも必要ではないかと思います。以前に、僕は新潟の被災地エリアに復旧の支援に行った時に、何か手伝おうと思って「われわれが若いからやります」と言ってみても、その土地に住んでいる人は、やはり山の暮らしのプロフェッショナルなので、おぼつかない様子でやっているわれわれに対して、本当に70、80のお父さん、お母さんたちが「お前ら、見てられないな。俺らがやってやる」と言って、農作業など、僕らが苦労してやっていることをあっという間にやり終えてしまうというようなこともありました。被災者という意味では、われわれは支援の手を差し伸べるべきかもしれないけれど、そこに暮らす人としては、われわれよりも、よほど暮らしの達人で、その暮らしの達人がやってくれることというのは、すごく魅力的に見えます。新潟で、今農家レストランをやっている女性陣がいるのですが、その方々が中山間地域の人の来ない所に来てくれた人にごちそうを振る舞ってくれていました。震災でいろいろなものが手に入らない状況にもかかわらず、来てくれた人にごちそうするためにお刺身を買って来て、食べてもらっていましたが、東京の人からすると、それはどこでも食べられるものなので、逆にその地域の棚田で取れた米や、自家製の味噌で作った味噌汁の方がずっと喜ばれたということがありました。「なんだ、それで人が喜んでくれるんだったら、それでいいんじゃないか」という気付きは実は災害がないと起こらなかったと彼女たちは言っています。そういった気付きは、復興の途中にたくさんあった方がいいし、その時に地域の力というのが再認識されると思います。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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