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防災インタビューVol.210

津波裁判から考える災害の法社会学 ~亡き命をせめて教訓に~

放送月:2023年2月
公開月:2023年5月

飯 考行 氏

専修大学法学部 教授

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

大川小学校津波事故とその後の経過

2011年3月の東日本大震災の学校事故で1番大きな被害を受けたのは、宮城県石巻市立大川小学校です。多くの方がご存知かもしれませんが、小学生74名と教職員10名が津波の犠牲になりました。津波は校舎2階の天井付近まで達し、小学校だけではなく周辺の大川地区一体が壊滅的な状況に至りました。

東日本大震災地震が起こったのは2011年3月11日午後2時46分でした。けれども、大川小学校では津波に対する避難をせずに児童と教職員は校庭で待機していました。そして、3時30分過ぎにようやく移動を始めますが、移動した途端、津波に呑まれてしまったという痛ましい事案です。

この事故については、多くの人命が奪われ、小学生のお子さんを亡くした保護者の方が捜索活動を行いました。しかし、震災直後は被災現場に至るのも難しく、近くの川の堤防が決壊したこともあり、1日2日経ってからようやく保護者の方が現場に立ち入ることができました。石巻市を含めて宮城県全域で非常に壊滅的な被害があり、救助活動が追いつかない状況となっており、警察や自衛隊もなかなか大川地区に到着しない中で、保護者の方々は、スコップなどの道具がないので手で土砂を掘り、自分の子供が埋まっているかもしれないと思われるところで捜索活動をされました。途中で、おそらく生存して帰って来ないということが分かっていても、捜索活動を続けました。それはなぜかというと、遺体でも見つけて自分の家に戻して「火葬してあげたい」「お墓に入れてあげたい」という保護者の方の思いによるものです。「子供が見つかったか」と声をかけあいますが、それは「生きて見つかったか」という意味ではなくて、「遺体が見つかったか」という意味だったのです。

このように非常に辛い思いをされながら、保護者の方は土砂を自分の手でかき分け、まさに手探りでお子さんの遺体を探しました。それでも、ご遺体が見つかる保護者の方はまだ良い方と言われていて、未だにご遺体が見つからないお子さんもおられます。お子さんを亡くされた保護者の方の辛い心情が、大川小学校津波事故では見聞きされるところです。私も保護者の方にお話を伺ったことがありますが、よく聞く言葉は、「なぜ自分はすぐ迎えに行ってあげなかったのだろうか」ということです。保護者の方は、お仕事の関係で小学校から遠くにいたなど、迎えに行くこと自体、物理的に難しい方が多いのですが、ご自身を責められます。「自分もいっそ一緒に死んであげたかった」などの声もたびたびうかがいました。そうした中で、「どうしてこのような事故が起きたのだろう」「どうして校庭に40分余り待機させられたのだろう」などの疑問から、事故原因を究明するために、市や教育委員会の説明を受ける保護者説明会が何度も重ねられました。大川小学校事故検証委員会という第三者の検証もありました。しかし、ご遺族としては事故原因が完全に究明されたとは言えないということで、やむをえず裁判に打って出ることになります。

亡き命をせめて教訓に

大川小学校の津波裁判では、第1審の仙台地方裁判所、第2審の仙台高等裁判所ともに、原告遺族の主張がほぼ認められました。第1審の裁判では、「地震の後、どうして校庭に長い間待機していたのか」を重視しました。なかでも3時25分頃には市の広報車が大川小の近くを通って「津波が来るぞ」と呼び掛けていたことが裁判で認定され、その時点で避難していれば助かったのではないか、1分程度で裏山へ移動できたのではないか、というのが第1審の裁判での認定でした。

しかし、第2審の高等裁判所は異なる理由づけでした。高等裁判所では、事前の防災の備えが十分ではなかったとして、平時からの教育委員会そして校長等の学校運営責任者の組織的な過失を認定して、原告遺族の勝訴となりました。学校保健安全法に定められている「危機管理マニュアルの作成・改訂義務」を、学校の運営に責任のある機関、あるいは責任者が怠っていたが大きな理由です。このように組織として平時からの防災が裁判でも重視されたことが、大川小学校事故の高等裁判所判決の大きな特徴となっています。

現在は大川小学校および大川地区について、あるご遺族は、津波事故で遺族も地域も病んでしまったと評しています。被災により物心ともに大きな痛みを抱えている方がおられる一方、12年ほどの時間が経過して、昨年は生存した児童などによる「お帰りプロジェクト」という灯篭を灯す催しや、3月11日に「大川竹あかり」という竹灯篭を夜にライトアップする催しも開かれています。「悲しみ」「対立」から「命を育む」フェーズに移っているのかもしれません。

あるご遺族は、「子どもは教訓になるために亡くなったのではないけれども、せめて教訓にせざるをえない」とおっしゃっています。私たちも、ご遺族の悲しみに共感し、今後の命を育む行動に生かす教訓にすることが重要であると言えるでしょう。

この大川小学校の津波事故につきまして、映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』が2023年2月に上映され、私の編著の書籍『子どもたちの命と生きる―大川小学校津波事故を見つめて』(信山社)が出版されました。「大川小学校津波事故とその後の経過」「ご遺族の思い」「津波学校事故を考える」「防災の取り組みと地域の営み」の4章で構成しています。

ご遺族には、津波から12年ほどを経て手記を寄せていただきました。また、関係者に未来へ託すメッセージを寄せていただき、50数人が寄稿しています。帯で尾木直樹さん、竹下景子さん、河上正二さん、大谷昭宏さんにご推薦いただいています。多くの方々のご協力でできた本ですので、お手に取って今後の防災に役立てていただければ幸いです。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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