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防災インタビューVol.165

災害に負けない社会を作るために

放送月:2019年6月
公開月:2020年11月

大津山 光子 氏

SEEDS Asia
海外事業統括

FMサルースで放送された音源をお聞きいただけます。

広げる支援から根付く支援へ

私たちは、移動式防災教室で、400村ぐらい訪問してきたのですが、その中でもっと防災について学びたい、活動したいという人が出てきました。これはやはり昔からの日本の防災の事例を伝えたことで、「それならば、自分たちにもできるんじゃないか」というふうに思ってくれる人たちがたくさんいたことと、サイクロン・ナルギスという大災害を経て、もう同じ経験はしたくないと思う人がいたということです。ただ知るだけの防災ではなく、みんなで一緒に取り組んでいく防災をやりたい人が出てきたので、私たちはこの活動の担い手づくりというのを始めました。

その時に対象となったのは、まずは学校の先生でした。私たちは移動式防災教室ですと、行ってすぐ戻ってきますが、その後先生たちと連絡を取って学校に防災活動センターというようなコーナーを作って、一緒に防災トレーニングをしたり、消火訓練や応急処置など、防災に関わる技術を一緒に高めていきました。それは、ネットワークを形成するというような活動になっており、知って広げていく防災から、自分たちでやっていく根付く防災支援へと進んでいきました。

例えば、今、洪水の常襲地で学校兼避難所を造っているのですが、そこで建設した学校をベースに、住民と学校で防災委員会を作って、その避難所をどういうふうに運営していくのかを考えています。その中で、村の1軒1軒を訪問して、この家には何歳の要配慮者がいて避難できない人がいるとか、実際に避難したときにどの家族をどこの世帯にというようなところまで避難計画を一緒に作っています。

このように、その地域の中で根付く支援も大切なのですが、もう少し進んで、被災地同士で学び合うということも大切です。日本であれば、SEEDS Asiaが、阪神淡路大震災の被災地の神戸と東日本大震災の被災地の気仙沼をつなげたり、ミャンマーにSEEDS Asiaが建てた学校兼避難所に机と黒板を兵庫県丹波市から送ってもらったりということで、つながりができています。このように、被災地同士がつながって、これからの防災を高め合うために、お互いのことを学び合って、交流によってつながり、それによって防災へのモチベーションを高めるというような活動もしています。

学び合う防災

被災地同士でつながりあうことが大切だということをお話ししましたが、国内の被災地同士だけではなく、SEEDS Asiaだからこそ、被災地が別々の国であったとしても国と国をつなげて学び合うということもしていきたいと思います。

SEEDS Asiaは、ミャンマーの洪水の常襲地に学校兼シェルターを建てた際に、兵庫県丹波市から、黒板と机と椅子を頂きました。丹波市では2016年に豪雨災害が起きまして、その災害の時にたくさんの支援が来たことと、住民同士の助け合いがあったからこそ死亡者がいなかったということがあったので、その時に頂いた支援を世界に広げたいという丹波市の希望がありました。私たちも復興の支援を丹波市と一緒にしていましたので、そのつながりの中で出てきたのがこの支援です。その時に丹波市の市長から手紙を頂きました。その手紙には今回の豪雨災害の状況と、その中でもみんなで助け合うということがとても大切だったということと、もう1つは、第二次世界大戦中に日本が食糧難に陥ったのですが、戦後にミャンマーからたくさん米を日本に送ってもらい、それによって日本の飢餓が救われたということがあり、私たちは今その恩返しとして、これを贈りたいということが書いてありました。それを住民に読み上げた時に、ミャンマーの方たちがボロボロ泣き出しました。やはり感謝の気持ちや助け合うということはどこの国でも、人間としての共通する部分だと感じました。丹波市も今回の支援で「心をつなぎたい」と言われていたのですが、その心をつなぐという活動が、「本当につながれたんだな」と感じた瞬間でした。

まさにこのように「お互いさま」という心で、たとえ今被災していなくても、いわゆる「未災地」といわれる場所なわけですから、いつ何があるか分からない中で、そういうつながりというものを作っておくと災害時も助け合えます。やはりそれが持続可能な社会づくりにとっては一番重要だと思っています。

助け合って生き延びる

防災についても「つながり」が大事だということをお話ししましたが、いかに自然に身近に助け合いができるかというのも非常に重要なことです。ミャンマーでサイクロン・ナルギスが起こった際には、1カ月間実は緊急支援の物資が現地に届きませんでした。5月2日にナルギスが来て、ミャンマー政府は5月9日まで何も動いていませんでした。物資のみの援助の受け入れをするということでしたが、人道支援の関係者は入国禁止でした。それは5月10日に新憲法の国民投票があり、それまでに外国人や支援団体を入れたくないという状況があったためで、5月19日になってASEANのアドマー(AADMER)といわれるアジアの中での緊急支援の相互協定に基づいて、ようやく支援許可が出ました。既に災害の発生から2週間半くらいたってしまっていました。その19日のASEANの中での協定を経て、5月23日に国連と協議があって支援を受け入れることになり、支援が到着したのが5月下旬、物資が配られ始めたのは6月からでした。もちろんこの間に水や食べ物がなくて、亡くなられた方も実はいたのですが、その中でもミャンマーの人々はなんとかみんなで助け合って生き延びることができました。どのようにして生き延びることができたのか、被災後の調査で分かったことは、ある村には1本の木が残っていてそこにココナッツの実がなっていたので、そのココナッツのジュースを飲むことで何とか水分補給ができたということでした。しかし、それも限りがあります。その後は、住民同士で、親戚、近所の方や友達にお金を借りたり、物をもらったりしながらなんとかしていたそうです。まさに極限の自助共助の世界というか、助け合わないと生きていけないという状況でした。

※今回のインタビュー記事は、「FM salus」が過去に放送した「サロン・ド・防災」の内容を、一部改定して掲載しています。

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